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小説〜辿り着いたは精神病院? シーン6 "グラスオブハウス" 総集編

小説〜辿り着いたは精神病院?

資産家のお嬢様で良家の奥様。仕事良い夫、多くを持てる彼女は死の願望に取り憑かれていた。前を向き強く生きていた瞳はもう暗闇しか映さない。警告:小説と現実の区別がつかない人は絶対読まないで下さい。

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シーン6 "グラスオブハウス" 総集編

 


*警告*このブログには自殺、流血、薬物、飲酒、精神病治療のシーンが含まれます自己の責任で対処できる方、小説と現実の区別がつく方のみ閲覧して下さい。







 

シーン6-1 "グラスオブハウス"


洗濯機を回す。洗濯物を干す。夕方取り入れる。ゆっくりと畳む。そして収納する。
小学生の頃からやってきた『洗濯』って作業なのに、三十六の今になり負担を感じる日があった。
パンと珈琲に果物だけの簡単な朝食、出来合いのお惣菜とご飯を炊くだけの夕食、たった二人分の後片付け。それさえ休み休み行っていた。ここ数年、大好きな食器類は棚に置かれたままで、使用されるのは食器洗機に耐えられる丈夫だけれど味気ないものばかりだった。
睡眠薬無しでは眠れず、抗うつ剤を最高量処方され、臨床心理の面談は続いていた。

それでも気が向けば午後からキッチンを磨いたり、祐輔の母が名古屋に出向く折りに待ち合わせてランチをした。久しぶりの友人に電話を掛け泣かんばかりに喜んでもらい、同僚だった人間から『留璃子さんが居ないとだめです。戻って下さ〜い』とお世辞を言われ、くすぐったくも嬉しい思いをした。



「ご主人と旅行ですか。素敵ですね椙山さん!」多岐川先生は優しく微笑んだ。
「はい、ありがとうございます。」
私達は久しぶりに旅行に行った。たしかママが倒れる前のマウイが最後だ。
「京都ですか。のんびりされました?」
「はい」
会員制のリゾートホテルはシーズンを少し外したこともあり、落ち着いて過ごす事が出来た。ゆったりとしたスイートは和とモダンをミックスさせた洒落た造りで、食事も値段だけのことはあった。何より祐輔と二人でのお出掛けを楽しいと感じれられたこと、それが嬉しかった。

「私って、中学も高校生も陸上部で体育会系だったんです。でも、なんとなく絵を学びたいって気持ちがありました。思い切って美術予備校にも通い始めたら、そこでちょと褒められて。関東の美大に入りたいな〜なんて思うようになって. . . 若かったですねぇ」私は夢を持ち、己の理想とする美大入学を目指していた。高一の後半から美術予備校に通い、ただひたすら励んでいた。思い出すとなんだか眩しい。
「椙山さんはお仕事もデザイン関係でしたね?」多岐川先生はチラリとカルテに眼を落とすと微笑んだ。「お好きなんですね?」
「いいえ!私の狙ってた関東の美大は学科に重きを置いてないんですよ。わたしにとっては、そっちが魅力だったんです」自分の言葉にクスクス笑う。

設備やユニークな教授陣のあつまる関東の有名私立美大に潜り込めるかもしれない。少なくとも予備校の講師は、そう言って肩を叩いてくれた。

「結局、地元の県立芸大を受験することにした時は、受験勉強してなかったツケが回って来た。天罰だなって思いましたよ」また、私はハハハと笑った.

一応進学クラスは存在するもののノンビリとした校風で既に二年間過ごしいた。当然のように狙っていた美大入学に必要な受験科目の国英以外はろくに勉強もしていなかった。
部活に、家事、日曜は美術予備校通いと、それなりに手一杯だった私は、二年間の遅れをどうやって取り戻そうかと悩んだ。
陸上部の引退を夏から春に繰り上げる?部長である私が?それとも、日曜の美術予備校に、進学予備校も掛け持ちする?
窮地の策として、一つ年下の琥珀が通う超進学校の課外学習用のテキストを譲り受け、一年からやり直したのだった。理数系を中心に週に2~3度、琥珀に勉強を見てもらい必死で勉強をした。幸い琥珀の高校では二年生までで受験に必要な課程を進めてしまうカリキュラムが組まれていた。
「姉としては情けないのですが、弟にいわゆる家庭教師してもらったんですよ」思わずペロっと舌を出した。
秀才の集団の中でも琥珀はやはり神童と呼ばれていた。その弟のマンツーマン指導は、確かに効果的だった。
「部活を引退した夏休みなんて、毎日ビシビシしぼられました。年末に合格ラインまで偏差値が上がったときは、涙出そうなくらい嬉しかったです」頭を抱える私の前で楽しそうに腕組みする琥珀の顔を見なくて済む。そう思ったらマジで踊りだしそうだった。
「あんなに勉強したのは生まれて初めてでした」

笑いの余韻を残し、しばらくの時間部屋を静寂が包んだ。


気がつけば、口を開いていた。
「ゴルフ場で、襲われたんです。弟がゴルフクラブで殴りつけられて. . . 」

小学生になった末っ子の金剛は急にプロ野球に興味を持ち、バッティングセンターに行きたいとねだった。土曜の夜、私のスクーターの後ろに金剛を乗せ出掛けようとしたところ、道場帰りの黒曜とばったり出くわした。自分も行くと言い、剣道の稽古の疲れも見せず自転車で後を着いて来た。

『球が早くて、手が痛い』
直ぐに飽きてしまった金剛を連れて、私達は併設されている打ちっぱなしに場所を移した。その頃の私は高校になって始めたゴルフを琥珀と競い合っていた。
不器用にクラブを振り回す黒曜を顔見知りのレッスンプロに任せ、私は最近ますます調子の上がったアイアンの練習を始めた。
古くからのメンバーであるパパも通うこの練習場には顔見知りの叔父さんが多く、留璃子ちゃんナイスショッ!など、しょっちゅう声を掛けてもらっていた。留璃子ちゃんプロ目指したら〜!?なんてお調子の良いヤジまで飛んで来た。

50打ったところで、金剛に軽食でも食べさせてやろうと振り返った。後ろの椅子座る金剛はいつの間にかジュースを飲んでいる。
「コン。ジュースどうしたの?」
「もらった」金剛は少し離れた位置の女性を指差した。
「何かもらったら、ちゃんとお姉ちゃんに言う約束でしょ?」私は数歩み寄るとペコリと頭を下げた。「すみません。どうもありがとうございます」
「いいえ。どういたしまして高倉のお嬢さん」
暖かみのない声に私はハっと相手の顔を見た。とてもスタイルが良く、キツい程に整った顔をした中年女性だった。見覚えは無い人だけれど、私を見る眼は冷たい光を放っていた。
「ああ!コン、何で、お前ばっかジュース飲んでるだぁ!」黒曜はウッドを行儀悪く放り投げると私に近づいて来た。「留璃子ネエ俺にも奢ってくれよ」
「あら?高倉の坊ちゃん?」女性は視線を私の後ろに移した。冷たい笑いに背筋がぞっとした。
私の隣に立った黒曜が答えた。
「あ、はい」
「ジュースなら、私が奢らせてもらうわ」女性は笑っているけれど笑っていない. . . ?

「あの、結構です。私が. . . 」黒曜をこの女性に近づけたくない。何か変だ。
私は右手をサっと上げ、弟を制止しようとした。と、女性はいきなり手に持ったパターを振り上げる。
「あっ!!黒曜. . . 」
軌道は明らかに黒曜を狙っていた。
ガキン!!
右腕に凄まじい衝撃が走り、頭の天辺まで痛みが突き抜ける。私は立っていられずうずくまった。
「留璃子ネエ!!」
叫ぶ黒曜が、再びゴルフクラブに狙われるのを目の端でとらえる。

ああ、黒曜、黒曜、黒曜が. . . !

瞬間、右手を竹刀のように伸ばした黒曜は、女性の打撃を外側にかわし、よろけた相手の手元にビシリと一発決めた。
凶器と化してたパターがカランと音を立て、敷き詰められたコンクリーの上に落ちる。突然の出来事に呆然としていた周囲の人間が突如動き出し、さらに暴れようともがく女性を取り押さえた。

「畜生!離せ!!高倉のガキィ!ぶっ殺してやるぅ!!!」
中学生とはいえ飛び抜けて大柄な黒曜に背中をがっしり踏まれ、さらに数人に取り囲まれているのに彼女は足掻き、悪態を吐き出し続けた。
「何が自慢の息子だぁ〜!あんなショボイ女が生んだガキが天才児だって!!吹くのもいい加減にしろぉ!!わたしだって!わたしだって、子供の一人や二人ぐらい産んでやる!!!お前らなんて、束になってもかなわないくらい」

てんさいじ?. . . . . . 琥珀?

「あぁぁぁん!!留璃子ちゃんが、留璃子ちゃん〜. . . 」金剛の叫び。
小さな身体を震わせグチャグチャに泣いてる弟をさっと抱きかかえ、私の横に跪いのは黒曜だった。
「留璃子ネエ!腕、腕が、右腕が!」黒曜も悲惨な声を出した。「み、右腕じゃなねぇかぁ!留璃子ネエ、なんで逃げねぇんだよ!俺は有段者だぞ!バカか!留璃子ネエはバカだ!」
「あ?そうだった。黒曜、強かったね. . . 」
「バカか!!」
「ごめん」
「黒曜兄ィ!留璃子ちゃん、い、いじめるなぁぁ. . . . . . 」金剛の叫びはひきつけ、最後まで声にならない。
顔見知りの叔母さんがむずかる金剛を、そっと黒曜の手から抱き上げてくれた。金剛は親切なその腕を振りほどこうと、バタバタ暴れしゃくり上げている。
「コ〜ン。お姉ちゃんヘーキだから、心配しなくて、つ、ぅ 」身を起こそうとし、あまりの痛みに息が詰まる。
「じっとしてろ。救急車来るから」
黒曜は丸めたスポーツタオルを私の頭の下にそっと置くと、自分の上着を脱いで短パンしかはいていない足に掛けてくれた。
「はぁ?救急車?私、乗らな. . . 」
「乗るんだ、留璃子ネエ!」黒曜は悔しそうに唇をかんだ。「骨折れて、る、んだ. . . 」

. . . . . . 黒曜、泣いている?黒曜が涙を?

悲しませた。
弟達を悲しませてしまった。
そうだ、黒曜は剣道の有段者だ。中年の素人女性の攻撃なんて軽くいなせる。私がとっさに手を出し怪我なんてしてしまったせいで、黒曜はどれだけ悔しい思いをしているだろ?それだけじゃない、まだ小さい金剛の目の前で、姉に対する暴力行為をさせてしまった。









シーン6-2 "グラスオブハウス"


暴力を振るった女性を告発することはせずに、示談で解決をつけたらしい。女性は二度と私達の前に姿を現さなかった。そして、パパからはなんの説明も労りの言葉も無かった。

別れ話がもつれた挙げ句の暴挙。つまり痴情の果てってやつだ。しかも女性が狙ったのはパパご自慢の長男、琥珀だった。私と琥珀はいつもあの練習場で球を打っている。それを知っていたのだろう。
今年十六の琥珀は身長180センチ、十四の黒曜もちょうど180センチと兄に追いついたところだった。

ママは弁護士に聞きかじった内容に、怒り狂った。『私の息子が、琥珀が、殺されるところだった!』と執拗に、繰り返し喚いた。

琥珀は何も言わない。
黒曜も何も言わない。
金剛は泣くだけだった。

私達姉弟は以来、その事件を一言も口にしていなかった。


「るりちゃ. . .」夜中、金剛はまた私のベッドに潜り込んで来た。「ヒック、ヒッ. . . 」
「どーしたの、コン?怖い夢見た?」
私は冷えきった小さな体を毛布ごと抱きしめてやった。
「るりちゃ. . . が、いない. . . 」金剛はたどたどしく言った。
八歳になる末弟は、あれ以来たびたび幼児返りしてしまうことがあった。ちゃんと言えていた私の名前も、舌っ足らずの幼い頃の愛称に戻ってしうのだ。
「お姉ちゃんはねぇ、どこにも行かないよ」
「エッ、エ. . . ヒック. . . 」
「今日も、学校行からちゃんと帰って来て、コンと一緒にカレー食べたでしょ?真ん丸にんじん入ってたよね?」
「うん、まんまるにんじん」
「一緒にお風呂も入ったよね?」
「うん、るりちゃと、おふろはいった」
「コンの頭をサイヤ人にしたよね?」
「うん、オレ、サイヤ人になった」
「明日も一緒にご飯食べて、サイヤ人になろうね」
「うん、なる」
「お休みに映画行こう」
「ほんと?るりちゃ?」
「映画館じゃ、みんなコーラ飲むんだよ?」
「いや、コーラちくちくするもん」
背中をさすってやると、すうすうとした寝息が聞こえる。丸い頬から涙を拭ってやった。

幼い弟の心に傷を与えてしまった己が許せなかった。
ごめんね、コン。
ごめんね、黒曜。
ごめんね、琥珀。


祖父が亡くなり、自分の実家に家族と共に戻った母は、この頃からますます落ち着きを無くして行った。
私は高校三年生に進級し、取りあえず進学クラスに所属していた。クラス替え直後の進路相談に、渋るママを連れて行くのはとても大変だった。
「で、高倉さんは美大志望でよろしいですね?」ベテランの担任は穏やかに、ママに向って話を進めた。
ママは私の隣で曖昧を浮かべ、微かに頷いた。
「高倉は骨折大丈夫なのか?右腕なのに?ブランクできちゃうだろ?予備校ではなんて言われてるだ?」担任は私に向い、ざっくばらんに質問した。
「はい。もう腕は大丈夫です!もともとクロッキーは得意だし、このまま頑張ればなんとかなるんじゃないかと、判定してもらってます!!」
「ほう、すごいな高倉は。まだ春の段階で!」担任は相好を崩した。「けど、学科はもう少し頑張った方が良いなぁ?」
「ははは!はい!高倉、頑張ります!」運動部に所属している私の受け答えは、つい体育会系ぶなってしまう。
「今の志望校ならセンターは関係ないけど、地元の美大も受けるかもしれないだろ?理数も勉強しとかなくて平気か?」
「私、地元を受ける気ありません。実技の配点重視の大学のみを狙っ. . . . . . 」
「留璃子?. . . 何言ってるの?」突然ママが会話を遮った。
「え?センター試験は関係無いって. . . 」
「地元の大学を受けないってどういう意味なの?」
「ママ?私、何度も関東の美大に行きたいって話をしたでしょ?」
「東京に行くの?. . . 留璃子は、家を出て行くつもりだったのぉ?」
「お母さん、今日のところはざっとした掴みで、そろそろ終わりましょう」雲行きが怪しいのを察した担任が話を打ち切ろうとする。
「先生!娘が家を出ようってのに注意もしてくださらないんですか?」
「ママ!」
「留璃子は家を見捨てるつもりなの!」
私はママの体に手を回し、困惑している担任に頭を下げた。
「先生、スミマセン!家で充分話し合って来ます。失礼します!!」
「あ、ああ。高倉、お疲れ!」
小柄なママをなかば引き摺るように、廊下にでるとクラスメートの驚いた顔に出迎えられる。
「留璃子は、家を、家族を捨てるのね. . . 」さめざめと泣き出した。「捨てるの. . . ?」


私はその後、志望校を地元美大に変更した。ママに言われたからでは無い。
思う存分一流美大で学びたい気持ちは強かった。卒業後も関東に残り、出来れば出版か広告デザイン関係の仕事に就きたいとも考えていた。
だけど、末弟の金剛はまだ小学生でしょっちゅう熱を出した。パパに押し込められた柔道場も一ヶ月で辞めてしまい、顔を合わせると罵られ、私に助けを求めて来た。ママはますます暗く沈むようになり、まったく子供にも家庭内の出来事にも興味を示さなくなった。不器用だけれど誰よりも優しい性格の黒曜は、あの怪我から私と話をしなくなった。
長男の琥珀が高校生になった最近では、パパも昔のようには家族に暴力を向けることはなくなった。パパは琥珀に上手くあしらわれていた。なにしろ琥珀は大人並みの体格と黒帯を持ち、頭の回転は恐ろしい程早く、口が達者だ。その琥珀も本来持つ思いやりの深さを他人には決して見せず、世を斜めに見る冷めた態度を取るようになっていた。

パパはもう家族に手を出さない。だから私は外に出て行ける。自由に行きたい場所に行けば良い。
だから地元進学を選んだのは自分の意志なんだ。









シーン6-3 "グラスオブハウス"


黒曜の奥さん、紗香さんに会ったのは三年振りだった。唐突に鳴らされたインターホンに私は居留守を決め込んだ。それでも気になり玄関モニターを覗くと、そこには固い表情をした義妹の姿があった。

「留璃子姉さん。元気そうですね」紗香さんは言うと紅茶を一口飲んだ。
彼女は大きな数字入りのTシャツにレースのティアードスカートというちぐはぐな格好をしていた。シニオンに結った髪はあちこちバラバラとほつれ乱れている。
「ありがとう。心配かけてごめんね」
「黒曜が、黒曜は. . . レオが産まれたのに、黒曜は戻って来ないんです!」紗香さんの口調は切羽詰まっていた。「病院に顔を見せたの一度だけなんですよ!退院の時だって、私の実家まで送っただけで、直ぐに出て行っちゃて. . . 」
「紗香さん、ずっとご実家に居るの?」
「はい。あの大きな家に居たって. . . 黒曜は戻って来ないし。子供、三人も抱えて独りじゃ. . .

紗香さんと黒曜とは同級生で結婚したのは八年前、二十六の時だった。市内のホテルで華やかに執り行われた結婚式で、紗香さんとてもきらびやかだった。アルバムのどの式写真を見ても彼女は美しく幸せな表情をしていた。しかし、目の前に居る紗香さんはクマのできた暗い眼差しで、三十四才の年齢より老けて見えた。
「マヤちゃんとマオちゃんの学校はどうしてるの?」私は叔母として一番気になっていた質問をした。
「実家の学区の小学校に通わせてます. . . 両親もそうしろって」
「黒曜とは、話し合ったの?」
黒曜は今、琥珀と同じマンションに入居しているはずだ。市内では最高級に分類されるDNKSや優雅な独身生活を楽しむ人間をターゲットに絞った賃貸物件だ。中区というロケーションも仕事や遊びに最適なため、高額な家賃にも関わらず問い合わせが絶える事はないと聞いていた。
「お前となんて話すこと無いって。逃げるんです。今は携帯にも出ないし、会社に電話したって居留守使われて. . . 私、従業員にさえ馬鹿にされてますよ、きっと」
「紗香さん。馬鹿になんて. . . 」
「留璃子姉さんには解らないんです!私は留璃子ネエさんみたいにお嬢様じゃないしぃ. . . !」激高した語尾は震えていた。「黒曜が帰って来ないこと、みんな知ってて噂してるんですよね。私、私. . . お義父さんに、お前の我慢が足りないセイだって言われました」
「パパが?」
「黒曜のは、男の甲斐性だ。女がグズグズ言うことじゃないって. . . 黒曜が帰って来たくないって思うのは、私のセイなんだって」
それをパパがどんな口調で言うか、私は知っている。夫が帰らず、義父から詰め寄られ、彼女はどれだけ苦しんだのだろう?
「ひどい言い方。ごめんなさいね、紗香さん」
「お義父さんは、結婚する前から私のことを気に入らないです!」
「そんなことないよ。あの人は誰に対しても、あんな態度で. . . 」
「いいえ、私のこと、気に入らない嫁っておもってます!それに黒曜だって、留璃子ネエさんの料理はもっと美味しいとか、片付けが奇麗だったとか、しょっちゅう言ってるし. . . 」
「ええ?黒曜が?」私は心底驚いた。
「留璃子姉さんに物の置き場を訊ねたら"二階の南向き和室のクローゼット脇の引き出し一番上の右側の黄色いファイルにはさんである"ってカンジの答えがちゃんと返って来るって. . . なのにお前はまともに片付けもできないだろ?って」紗香さんはギュっとハンカチを握ると、上目使いに私を強い瞳で見つめた。「. . . 実際、私には、答えらないから」

私は大いに戸惑った。黒曜が私を褒める言葉なんて?今まで聞いたことが無い。何より、人と人を較べてアレコレ言うなんて最低だ. . . 。
「紗香さん。私は紗香さんみたいにシフォンケーキどころかお菓子の一つも作れないよ。黒曜の理屈で言えば、私も駄目人間ってことだ?人と人を比べるなんておかしいよ。黒曜は間違ってるよ」
彼女は私の言葉など耳に入らないようだ。ひたすら首を降り続ける。
「. . . 黒曜、女がいるん、です」義妹は唐突に話題を変えた。「外国人、らしい. . . です。一年前から一緒に暮らしてるんです!」
黒曜の浮気は二人がつき合っている頃からだった。何度、私が派手な喧嘩の仲裁をしたことやら。結婚後も女癖は治らず水商売の女性を派手に渡り歩いたらしい。しかし、どれも長続きせず決まった相手は居ないと聞いていた。
「え?紗香さん、どうしてそれを?」
「探偵を雇って調べさせました。. . . 留璃子姉さんの持ってる東区のマンションに一緒に住んでるって報告がありました」
「ええ?東区って、ステージヒルとかリバーステージとかの、あそこ?」
「プレステージヒル・イーストリバーです」紗香さんはマンション名をきっぱり言った。
そこは高倉不動産が所有管理する、地下鉄駅からほど近い東区の高級賃貸物件の一つだった。法人契約しか結ばず、用途は主に大企業の家族向け社宅だった。
「留璃子姉さん、ほんとに知らなかったんですか?」紗香さんは探るように私を見た。
「うん。全然知らなかった」
「追い出して下さい」
「え?」
「留璃子姉さんのマンションでしょ?黒曜とその女を追い出して下さい!」
「紗香さん、それは. . . 」
「留璃子姉さん、大家さんでしょ!黒曜の姉でしょ!!」叫び声は悲鳴となり私を打ちのめした。「外国人の女なんて金目当てに決まってる!留璃子ネエさん、なんとかしてぇぇ!!」


泣き叫ぶ紗香さんをなんとかなだめ、実家まで送った。紗香さんのご両親に会い、姉として話をするべきだったのだろうけれど、気力が出ずそのまま辞去してしまった。




頭は詰め込まれた情報を整理しようとするけれど、心がそれを拒んだ。灯りも付けず呆然とリビングに座り込んだ私を、帰宅した祐輔が見つけ大慌てした。どこも悪くはない、ただ自分の弟の家庭事情を知り驚いて力が抜けただけだと話すと、祐輔はホっと私を抱く手を緩めた。

「瑠璃。瑠璃、辛かったね」祐輔は優しく言った。
「え?辛いのは紗香さんだよ?」私は不思議に思い祐輔の顔を見た。
「けど、話し聞いて、瑠璃も辛かったでしょ?」
私が黙っていると、祐輔は優しく髪を撫でてくれた。
「瑠璃、瑠璃は黒曜君と話すつもり?瑠璃は病気なんだから無理しないで」
「. . . そうだね」
「今は、のんびりね?」
「ありがとう、祐輔」









シーン6-4 "グラスオブハウス"


黒曜を捕まえるのは至難の業だった。もとより私が一方的にメールや留守電を送りつけるだけで、向こうから連絡してこない奴なのだ。

しかたなく、私は高倉不動産の社長として、高倉建設社長の黒曜に予定を取らせる非常手段に出た。マリオットのラウンジで司法書士の先生と待ち合わせ、用意された書類に会社の実印を押している所に黒曜は現れた。

ビジネスライクなダークスーツ姿は姉の目から見ても様になり、惹かれるように店員が黒曜に近づいて行った。それを指先でサっと押しとどめ、私達のテーブルへと大股で近づいて来る。
「お疲れ様、黒曜」私は手を軽く振った。
「ああ、お疲れ、留璃子ネエ。先生」
旧知の仲である司法書士と簡単な挨拶を済ませると、さっそく用意された書類に目を通し承認のサインをした。あらかじめ言い含めておいたので司法書士は用を終えると早々に席を立ち、姉弟二人がテーブルに残された。
「琥珀、こないだ紗香さんが家に来たよ」
「そうか。. . . 迷惑掛けたな」
「黒曜、今プレステージヒル・イーストリバーに住んでるんだって?」
「留璃子ネエ、知ってたのか?」さして驚いた様子も無く言う。
「失礼な。私、一応社長なんですけど?」
「一応な」
「黒曜、紗香さんと子供達のとこ戻る気はないの?」この弟に曖昧な聞き方をしても無駄だ。私はズバリと質問した。
「ああ」
黒曜は内ポケットから銀のシガーケースを取り出すと、自分の座るテーブルが禁煙席だと気づき苦笑いを浮かべた。
「紗香と子供達の面倒はちゃんと見る。何でもしたいようにすれば良い。だから留璃子ネエ、俺のことも放って置いてくれ」
「黒曜、私は何も説教しようなんて思ってなよ」私は弟の言い様に少なからず傷ついた。「だけど、ズルズルと別居生活を続けても、子供達はどんどん大きくなるよ。マヤちゃんとマオちゃんはもう二年生でしょ?紗香さんだって、ちょっとノイローゼ気味みたいで心配なの。レオちゃんはまだ赤ちゃんだし」
「親なんてなくても子供は育つさ」
私を真っ直ぐ見つめる瞳は、俺たちがそうだったろ?と言っていた。反論を許さないと主張する厳しい眼差しが、二人の間に緊張を走らせた。
「黒曜は幸せ?」
私の問いに、黒曜は拍子抜けしたみたいな顔をした。
「へぇ?」
「今、黒曜は幸せなの?」
ふと、無表情だった黒曜の瞳が緩んだ。
「幸せかどうかなんて解らなねぇ。けど、楽しいぜ」口調も砕けてくる。「疲れたぁ、早く家に帰りてぇなんて、この年になって初めて思うようになったかなぁ?」
「黒曜は今の生活が、幸せなんだ?」
「. . . どうなのかな?けど、帰りたい場所は、あいつの所だけだ」
「そうか」
「ああ」
黒曜は手を軽く振ると、珈琲の追加を頼んだ。私達はしばらく無言で香りを楽しんだ。
「黒曜」
「ん?」
「紹介してよ」
「はぁ?」
「紹介して。この、図体ばかりデカイどーしようもない弟に居場所をくれた奇特な人に」私はマイセンのカップをお皿に戻すと、指を黒曜の鼻先に向けてやった。
「留璃子ネエ」黒曜はフイっとそっぽを向くと、しばらく呆然としていた。「. . . 留璃子ネエは、怒らねえのか?」
「怒る?」
「俺、家庭を壊してる。留璃子ネエは紗香の味方だろ?」
「はあ?紗香さんの味方?. . . 敵とか味方とかあるわけ?」
「だけど、留璃子ネエはそういの許せねぇんじゃねえの?俺のやってること. . . 」黒曜は珍しく言い淀んだ。
私はちょいちょいと手招きする。何事かと、テーブルから身を乗り出した黒曜に、強烈なデコピンをしてやった。
「ってぇ!何しやがる留璃子ネエ」
「ふん」私は腕を組むとことさらふんぞり返って見せた。「高倉三段。これしきのデコピンで、オヌシ大げさだぞ」
「留璃子ネエのは爪が刺さるんだよ、爪が」ホテルのラウンジなので声を潜めているけれど、そりゃ反則技だろと文句を言いながら額に手を当ててる姿はかなり情けなかった。
「ふふん、修行が足りん」

私の潔癖さがこの不器用な弟を遠ざけていたのかな?弟の幸せを願いながら、私はどこかで黒曜の行動を許せなかったのだろうか?

. . . . . . 紗香さんゴメンネ。私にはデコピン一発のお仕置きしか出来ないみたい。




週末にマンションを訪ねた私と祐輔を、黒曜は照れくさそうな笑みで迎えてくれた。私達のマンションほどではないけれど、そこそこクラス感の漂う玄関だ。

「はじめまして、おねえさん。おにいさん」女性は緊張した面持ちでペコリと頭を下げた。
大柄な黒曜の隣で小柄な彼女はまるで子供みたいに見えた。サラサラとした長い髪と白い肌、必死でこちらを見る瞳は潤んで、今にも泣き出してしまうのではないかと思えた。

私はふと思いつき、聞いてみた。「アーユゥハングゥ?」
「はい!韓国人です」パァっと笑みが広がる。
勘は大当たり、彼女は韓国の人だったんだ!
「アニョハセヨォ」私は挨拶をした。
韓流ドラマにはまっている祐輔の母に教えてもらった韓国語が思わぬ所で役に立ったなと感心した。元気になったら男共を置き去りにして二人で韓国へ遊びに行こうと母に誘われていた。. . . . . . もう少し真面目に聞いていれば良かった。
「アニョハセヨォ!」それでも彼女は喜んで返事をくれる。「韓国語、上手ですね!」
互いに差し出した手を握った。
「チョヌンスギヤマルリコサラミダ」
「チョヌンキムソヨンサラミダ」
「おいおい、留璃子ネエ、ソヨン。玄関できゃいきゃい騒ぐな。さっさと内入れよ」黒曜は自己紹介に水を差すと、呆れ顔で言った。
「うぁわ!良い匂い!!おっじゃましま〜す!!」祐輔はいそいそと靴を脱ぐと、はしゃぎながら言った。「チゲ?チゲの匂い?何チゲだろろ〜?」
「ゆ〜すけ!」
私が呼び止めると、怪訝そうに振り返る。「何、瑠璃?」
「祐輔、手に持ってるの何かな?」
「あ、コレ。忘れてた!」
祐輔は、淡い薔薇と霞草で作られた小振りの花束をソヨンさんに向って差し出した。
「あの、初めまして!黒曜君の姉、留璃子の夫の祐輔です!今日はお招き頂きありがとうございます!」
「はじめまして、お兄さん。キムソヨンです。来てくれて、嬉しいです」彼女は色白の頬を染め、花を受け取った。
隣で見守る黒曜はとても穏やかな表情を浮かべ、やり取りを見守っている。胸がきゅいと暖いのに、泣きそうなのはなんでだろ?

祐輔は満々の笑みで振り返った。
「どう瑠璃?僕の挨拶、OKだった?」




          




シーン6-5 "グラスオブハウス"


担当医が替わった。
総合病院では仕方ないことだけれど、研修を終えたばかりといった風情の医師の若い顔に、思わずためいきを漏らしそうになる。うつ病の治療は長期に渡る場合が多いのに、医師の入れ替わりは激しかった。

「睡眠は取れていますか?」小笠原と名乗る若い女性医師は、セオリー通りの質問から始めた。
「まあまあです」私は曖昧に答えた。
熟睡はできないものの、以前よりは眠れている。しかし眠剤の助けを借りても早朝に目覚めてしまうのを、充分と表現しての良いのだろうか?
「お食事は取れてますか?」さらに医師は問診を進めた。
「はい、それなりに」私の食欲は甘い物限定だった。
「その他、落ち込んだりとかしませんか?」
「はい、普通です」
結局、抗うつ剤、眠剤、安定剤の処方は替わらず、四週間後の診察予約を取り病院を後にした。初見なのに5分足らずの会話が診察時間とは. . . 『精神科医なんて薬の処方さえちゃんとしてれば良い』医師である弟の言葉を思い出す。
月二回ある臨床心理の多岐川先生の面談を合わせると、東中央病院を訪れるのは月三度。うつ病と診断され通院を始めてから二年以上が立とうとしている。去年の今頃はタヤマ病院に居たのかな?尾張大学付属病院だったかもしれない?



行きつけの美容サロンT&Mで、ヘアセットとメイクをしてもらった。複雑なシニヨンに一房巻き髪を垂らし、バッチリ決めたメイクはツケ睫毛付きだ。担当のタカオちゃんに礼を言うと、私は着替えをする為に一旦自宅に戻った。
祐輔の母の実家、家元であるおばあ様が主催する華道展と、その後のレセプションに招待されているのでいつもよりドレスアップする必要があった。
『年寄りばかりなので、華やかないでたちでおいで下さいね』と、今年傘寿を迎えるおばあ様は笑った。百貨店の催事場を借りた大きな催しの後、場所をホテルに移し立食パーティとなる。パーティには祐輔も途中から合流する予定だった。

ちょっと下品でパンキッシュな雰囲気を持つジョン・ガリアーノのオフホワイトのシルクドレスに、ノーブルなティファニーのスウィングコレクションをコーディネートする。揺れるラウンドダイヤのピアスとお揃いのネックレスが大きく開いた首に輝きを添え、祐輔との初デートに付けたカルティエのホワイトゴールドの腕時計に、重ねたエタニティリングで更にゴージャス感を出した。染めていない真っ黒な巻き髪と、フェラガモの黒エナメル11センチヒール、黒のクロコ素材のミニバーキンを持ち、白のドレスにきっぱりとしたアクセントを付けた。いつもよりも長く造ってもらったネイルはマットピンクに白い花の3Dアートがあしらってあった。

和服の女性と並んで見劣りがしない装いを考えるのは難しいけれど、これならおばあ様の期待を裏切らずに済むだろう。

膝上丈のスカートが、痩せて筋肉が落ちた足をスラリと見せている。まったく日焼けしていない足は真っ白で奇麗なモノだ。ボディローションの上にパウダーを叩き、鏡をチェックして満足した。



昼間に着るには少し背中が開き過ぎたデザインなので、薄いジョーゼットのショールを肩に羽織った。待ち合わせの時間までまだ少しあり、ぶらりとウィンドショッピングを楽しむことにした。平日の午後なのにお中元の時期だからか人出が多い。
ルイ・ヴィトンのショップでポップなトートを手に取ってみた。. . . . . . これならプールサイドに持ち歩くのにちょうど良いかもしれない?
魔法のように店員が側に並び、商品の説明を始めた。

「おいおい、今日はまた一段と地味だなぁ?」
背後から声を掛けられた。
振り向かなくとも解る、琥珀だ。
「琥珀。早かったのね?」
「そりゃ、留璃子ネエがカード破産するのを防いでやろうと急いで来たからな」
「はいはい。ど〜うも、ありがと」
私は今ヒールの高さを含め175センチもあるのに、琥珀と目線を合わせるのにまだ見上げる必要があった。ノーネクタイにポケットチーフを合わせ、長めに伸ばした髪に、眼鏡という姿は我が弟ながらハンサムだなと思った。余分な贅肉の無い引き締まった体に、仕立ての良いシックなスーツが似合っていた。
. . . . . . 皮肉が混じる笑顔さえ浮かべてなきゃ。
「それ、ポール・スチュアート?」私は少し考え見当を付けた。
「ああ」当然と言うような軽い答え。
「ふ〜ん。さすがオイシャサマ」普通のサラリーマンがビジネススーツとして着られるシロモノではない。
「留璃子ネエ、それ嫌みのつもりか?歩く身代金に言われたかねーぞ」
「もう!その言い方止めてよ!」私は本気で抗議した。昔そんなフレーズのアニメがあったらしく、思い出しては祐輔がおかしな歌を口ずさむのだ。
「留璃子ネエ、ケアンズ行くんだって?」琥珀は唐突に話題を変えた。
「わあ、耳早〜ぁ」
「なら、買い物は向こうですりゃ良いだろ?」言うが早いか、私の手にしていた商品を勝手に近くの店員に返してしまった。「どうも」

「どうも、ありがとうございました!!」
売り上げを邪魔されたにも関わらず、喜色満面のお姉さんに送られショップを後にした。
「お腹空いた。琥珀は昼食べたの?」
「って、留璃子ネエ、今からパーティじゃねえのか?」
「それは7時から」私は時計を見た。「まだ、2時半じゃない。何かスィーツが良いな〜」
「はい、はい」
私たちはエレベーターに向かいながら話を続けた。
「黒曜に会ったよ。一緒に住んでいるスヨンちゃんにも」
「そうか」
「高倉建設で、通訳のバイトしてたんだって?」
「ああ、そうらしいな」
「ふ〜んだ。やっぱ琥珀知ってたんだ」ちぇ、男同士の話なわけ?私だけ知らなかったんだ。
降りる人を避け、私たちはエレベーター乗り込んだ。シースルーのガラスは駅前の景色を見せる。ここ数年、凄まじい勢いで再開発が進みランドタワー建築が増えた。差し込む日差しは眩く強く、今日も暑く晴れ渡っていた。最高気温は35度の予報が出されていた。

外を眺める私に琥珀はさり気なく質問する。「留璃子ネエ。医者には行ってるのか?」
「うん。また、担当医替わったけどね」
「そうか。薬はちゃんと飲んでるのか?」
「飲んでま〜す」
「調子良いからって勝手に止めるなよ。抗うつ剤は続けて. . . 」
「琥珀〜ぅ、私をいくつだと思ってるわけ?」図体のでかい弟を軽く睨んでやる。

エレベーターは目的階に止まり、琥珀は私を先に降ろすと自分も後に続いた。
「琥珀?琥珀!」
正面出会い頭に居た女性が、驚いた表情でこちらに歩み寄ってきた。
「琥珀じゃない!どうしてたの?」
巻き髪を揺らし女性は私に向き直る。「こちらは. . . ?」
ボンキュボンのすごい美女で、ハキハキとしたしゃべり方に趣味の良い身なり。まさに琥珀のタイプだ。私がしたように、彼女も一瞬で私を値踏みするのが見て取れた。視線はバッグのダイヤの嵌った金具の部分で止まった。誰でも知っているHのロゴ。
琥珀は何も言わず肩を軽くすくめるだけで、それが嫌みなくらい様になった。

「こんにちは、琥珀の姉でございます」紹介する様子をみせない弟に、仕方なく自分から挨拶をした。
「あ、お姉さんですか. . . ?」彼女は少し面食らったようだ。
「弟がお世話になっています」軽く会釈した。
「あ、こちらこそ」女性は慌てて頭を下げた。「あの、私ちょっと話があるの。琥珀、私あれから. . . 」チラリと琥珀を見る。
「じゃあ、私お茶してくる。後で合流しよ?」訳ありそうな女性の様子に私は気を利かせた。
私の言葉を鮮やかに無視するすと、琥珀はすっと真横に立つ。
「食事行こうか?腹減ったんだろ?やけに優しい声で言う。「奢ってやるから、好きな店選べよ」笑顔まで見せた。
. . . 止めてよ、天変地異が起こるじゃない. . . 。
「でも、琥珀。こちらの方が. . . 」
「じゃ、また」琥珀はもの言いたげな女性にそっけない挨拶を返した。「さ、行こうか?」さりげなく私の肩に手を置き、その場を離れるべく誘導する。
「あ、琥珀. . . 」女性の呟きが背中に聞こえた。

角を回った場所で、涼しい顔をしている琥珀の手を叩いてやった。
「琥珀〜何よこの手!」
「ああ、大事なお姉様がふらつくと危ないだろ?副作用とかで?」
「ったく!人をダシに使うなってあれほど言ってるのに」
私達はピエールマルコリーニに足を踏み入れた。幸い空き席があり直ぐに案内された。
「はは、カレーでもケーキでも奢ってやるから」
「と〜ぜん!チョコのお土産付きね」

琥珀も黒曜と同じで女性を渡り歩いていた。会話が巧く仕草がスマートな琥珀はより女性にモテしょちゅう相手を変えているらしい。要領よく後腐れの無いサバサバとした人を選んでいるらしいが、それでも時折今みたいに私を当て馬に使うことがあった。
「どうして高倉の男は、こうも女癖が悪いんだろ?」
「そりゃ、魅力的な血筋してるんだろ?」琥珀はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。「留璃子ネエだって、すっげぇ女の子にモテてただろ?」
私は店員にメニューを返すと、季節のパフェとアールグレイをオーダーした。琥珀は珈琲だけだ。
「琥珀さぁ、まだバレンタインのチョコで私に負けたの根に持ってるんじゃな〜い?」

私が高二、琥珀が高一のバレンタインの当日、どちらがチョコをたくさん貰うか朝の食卓で言い合いになり、一週間の朝食と弁当作りを賭けたのだった。結果は51個対38個で、私の圧倒勝利だった。クラスメートはもちろん、部長をしていた陸上部の後輩や先輩、果ては男子生徒からもチョコを貰ったのだ。当時はまだ『友チョコ』など無かった時代だったので、かなりの記録と言えるだろう。女子生徒の少ない超進学校だった琥珀にはもとより不利な戦いだった。
「ふ、留璃子ネエのは、ありゃ組織票だろ?」琥珀はフンと偉そうに鼻で笑う。「俺のは全部本命だったからな」
「わたしだってお手紙付きの本命ばりばりチョコばっかでしたぁ〜」
「俺なんて担任からも貰ったぞ」はははと笑いながら眉を寄せた。定年ま後数年の教師の姿を思い出してるのだろう。「下は金剛の同級生だぞ。すげぇ守備範囲だろ?」
「っぷ!ばっかぁ!」私は耐えきれず吹き出した。しばらく二人で笑い合う。

こうして二人で馬鹿を言い合っていると、なんだか懐かしい気持ちになる。子供の頃、年子の私たちは勉強以外はなんでも張り合った。ゲームやトランプ、花札、バスケのフリースロー、ゴルフ、テニス。そして親のあしらい方。

私が男だったら、弟達ともっと違った関係が築けていたのかもしれない。









シーン6-6 "グラスオブハウス"


あれ以来、パパからの呼び出しが多い。
あれとは、会社に国税庁の査察が入った件だ。

パパは用事がなければ自分から連絡を取ってこない。それぞれ家を出た私達の住処を訪れる事さえ稀だ。私達の新居祝いに祐輔の両親と共に招待したけれど、パパは来てくれなかった。事務員の手配による立派な胡蝶蘭が届いたのみだった。
だから黒曜と一緒にタヤマ病院に見舞いに訪れたはとても驚いた。

逆に自分の用件があれば時と場合を考えずに人を呼びつけ応じなければドカドカと押し掛けて来る。良くても文句や愚痴、最悪な場合面倒事をやらせるためだった。

もう一つパパが私を呼び出す理由、それは人寂しい気分だ。
高倉建設ビルでなく実家でもない、市内の百貨店で待ち合わせた私に、パパは捲し立てていた。
「あのクソ女!刺しやがって!!」パパは思い出すと怒りをぶりかえらせ目を吊り上げた。「恩を仇で返しやがって!俺はなぁ、マルサの奴らの情報があんまり正確なんでおかしいと思ってたんだ!!クズ女がぁ!!」
パパの悪態は蒲生という名の女性に向かってたった。査察の最終日に挑戦的な態度で私を呼び止めた人だ。本来は五年置き程度でやって来る査察が繰り上げになり、痛い所を的確付かれたのは彼女が国税局に電話をしたためだ。つまりパパは自分の愛人に刺されたのだった。
「パパ落ち着いて。で、話はついたの?」
興奮したパパの声は段々高くなっていく。高級中華店でゆったりとした昼食を取る人々が何事と?こちらをチラチラ伺っていた。
「. . . ああ、五千あたりだ。チッ!」忌々しげに舌打ちする。
「重課税、付かなかったんだ?」
「ああ、うちの先生は優秀だからな」パパはタバコを揉み消すと、新たに火を着けた。「まあ、落としどころだろうなぁ?最初は、億持ってかれると思ったぞ」
「相手、選びなさいよ」
. . . そういうのを日本語で自業自得って言うのよね?
「は!アイツは性悪だったんだ!猫被りやがって」
新たに運ばれて来たコース料理をパパの皿に取り分けてやる。アワビの蒸し煮は美味しそうな湯気を立てていたけれど、私はさっぱり食欲を感じなかった。
パパは受け取った料理を口に運ぶと、ふと思い出したように箸をトンと置いた。
「おい留璃子。琥珀の奴はどういうつもりだ?せっかくバカ高い学費出して医者にしてやったのに尾大病院辞めやがって?俺はてっきり海外の大病院にでも行くつもりで辞めたと思ってたのによお?開業するでもねぇで、未だにチンケな請け負い仕事しやがって」パパの話はご自慢の長男に移った。
『目から鼻に抜ける』って諺がぴったりの私のすぐ下の弟をパパはずっと自慢にして来た。中学しか出ていないパパは自分の才覚だけでのし上がった。琥珀はその自分にとても似ていると、半ば自画自賛していた。だから自分の跡を継がせるつもりだった琥珀が医大に進学した時もパパの怒りは一瞬だった。直ぐに周囲への自慢に変わったのだ。次男の黒曜が会社を継ぎ、三男の金剛が弁護士か公認会計士になりサポートすれば良いさと言った。
「パパ。医師の仕事に優劣のなんて無いでしょ?そんな言い方止めてよ」私は無駄と解りながらもパパに訴えた。
「馬鹿かお前は!大体なぁ、医大選ぶ段からおかしかったんだよ?なんで尾大だ?東大じゃねえんだ?あいつの頭なら入れたんだ!それをあの馬鹿が!」やはり私の言葉は全く耳に入っていない。
「パパ、それは琥珀が決めることだよ」
琥珀が人の思い通りに動くわけがないことくらい、パパにも解ってるだろう。何事にも強引なパパでさえ、いつも琥珀には上手くあしらわれていた。たしかにある意味この二人は似ていた。パパがカリスマで人を動かす経営者ならば、琥珀は権謀術数で組織そのものに影響を与えるタイプだと私の中では区分していた。
パパの口調は次第に愚痴っぽくなってきた。
「まあ、尾大なら地元では一番だしよぉ、我慢してやるさ?教授様にでもなれりゃあな?俺だって親だ、息子が出世コースに乗れるようにって常葉カントリーまで買ってやったんだぞ?それをよう琥珀の奴」
この辺りでは名門中の名門であるゴルフコースの名を挙げた。このご時世でも常葉のメンバー希望者は後を絶たないそうで、投資と琥珀の将来を考えて四年越しで購入したのだと言う。
「パパったらどっかのドラマじゃあるまいし、琥珀だったら上司の接待なんて必要ないよ」
「女には解らん」吐き捨てるように言う。

長居していしまった桂花苑を後にした私達は、催事場で行われている時計宝飾店に向かった。外商さんとの付き合いでたまに顔を出す私と違い、パパはディナーショウや高級温泉での催事にもちょくちょく参加するらしい。

満面の笑みを浮かべる外商さんに迎えられ、私たちは広い会場をグルリと回った。各ブースに立つ係員と外商係を合わせると客の数を遥かに上回るだろう。いつの間にか外商さんに時計や宝石売り場の責任者までゾロゾロと引き連れた行列になってしまったが、そちらの相手はパパに任せた。フェンディの粋ではでな縞柄のジャッケットに、紫のシルクシャツと、紫紺のパンツの組み合わせている。大柄で押し出しの良いパパに似合っていた。昼間見るには少し派手だけれど、取り巻きを連れた姿は様になっている。
はぐれることは無いだろうと私は側を離れた。
今日はマックスマラーの麻素材の鮮やかな若草色のリゾートカジュアル風ロングワンピースに、エルメスオレンジのピコタンを持っていた。フェラガモのウェッジソールは11センチあり、現在のトータル身長は170センチ。嫌でも目につくだろう。
私はカルチェやダミアーニ、普段お目にかかれないハリー・ウィンストン、ブレゲ等のブースを、誰にも邪魔されずに見て楽しんだ。

ダイバーズウォッチしか持っていない祐輔にスーツに合うちょっと洒落た時計を買ってあげようかと考えているとパパに呼ばれた。
「留璃子。どうだ、コレ?」
ブルーのビロード敷きのトレイにこれでもかとダイヤの散らばった腕時計があった。
「う〜ん?パパ、似たようなの持ってない?」
「お嬢様、こちらはハリー・ウィンストンでございまして、手前どもで高倉社長にご案内させて頂くのは初めてでございます」外商さんは愛想良く説明してくれた。
「そうですか. . . 」ゼロが一個多いはず、絶対一個多いよね?
「留璃子。そう言えばお前、誕生日どうした?何か買ってやろうか?」
「いいよ、パパ」今は8月で私の誕生日は12月だよ、パパ?
私が首を振るのと同時に外商さんが素早く言った。「ようございまいしたね。お嬢様!!」
. . . . . . 三十五にもなってお嬢様って、恥ずかしいんですけど. . . 。

要らないと言ったのにもかかわらず突如ご機嫌の良くなったパパと外商さんに押し切られ、
ブルガリのアショーマを買ってもらった。ユニセックスなメンズ時計なので、祐輔と兼用できるだろう. . . 似合うかどうかは微妙だけれど。
パパは最初に勧められたハリー・ウィンストンを購入した。腕時計2つで中古マンション程の値段。その購入を信用だけで出来るなんて、考えて見れば凄いことなんだろうな〜?
. . . パパの車とこの時計、どちらが高いのだろう?以前、弟達にからかわれたのを思い出す。車?う〜ん、やっぱ時計?

巨大な地下駐車場の出入り口に着くと駐車券を自動機で清算する。
最近めまいが起こらないので、私は以前のみたいに車を運転するようになった。黒塗りのベンツは外見はともかく、乗り心地はとても良かった。
「パパ。今日は時計、ありがとうね!夕食、お肉ばっかりにしないで和食も食べてよ?」
「あ、そうだ留璃子」
「ん?何?」
「お前、紗香の奴と話したんだろ?ちゃんと納得させろ」
「何とかって. . . 夫婦の間なんて本人同士じゃないきゃ解決しないよ。黒曜は紗香さんと話す気が無いって言うし」私は運転用の薄い色の付いたUVカットサングラスをバッグから取り出す。. . . 帰り際にこんな話持ち出されても. . . 。
「ふん。専務が煩ぇんだよ。うちの娘が哀れ
だの、せっかく生まれた孫が父親に抱いてもらえず不憫だの、グチグチ朝から言われる俺の身にもなってみろ?あ?」不憫なのは俺だぞとふんぞり返った。
黒曜と紗香さんはいわゆる職場結婚だった。短大卒の紗香さんは、大学卒業後直ぐにパパの会社に入った黒曜の先輩にあたる。
「渡辺の小父さん専務になったの?」
「ああ。高倉建設に外戚を置いておくのは重要だからな?渡辺は親馬鹿だけど仕事は出来るし業界に顔も広いからな。渡辺に仕事サボられると俺が困るんだよ!留璃子、お前一度渡辺専務の家行ってこい。紗香にグズグズ言わせねぇように、ちゃんと言い聞かせてこいよ?」古くからの補佐であり今や親戚である渡辺さんを、パパは重用しているらしい。
「. . . . . . 」
「マヤとマオも留璃子お姉ちゃんに会いたいって言ってるらしいぞ?」私が渋っているのを見て取ると、パパは付け加えた。
「解った」









シーン6-7 "グラスオブハウス"


紗香さんに電話をしようとして何度も躊躇う。

私はこの義妹が好きだった。一人っ子らしいちょっと我がままな部分も、ポンと口をついては飛び出す余計な一言も、彼女の素直さの現れだと好感を持っていた。

「瑠璃?どうしたの?」
祐輔は私の顔を不思議そうに見ていた。
私は手に持った受話器をいつの間にかもて遊んでいたらしい。
「あ?. . . ああ. . . 」
「どっか電話するの?」祐輔は掛け時計を見上げると言った。「もう十時になるよ?あんまり遅くない方が良くない?」
「あ、ありがとう。祐輔」

私たちはノートパソコンでネット検索をかけ、ケアンズの情報を集めているところだった。リビングのソファーに並び祐輔はビールを、私はガス入りのエビアンをそれぞれ飲んでいた。今日は金曜日、マンションの最上階であるこの部屋まで週末の街のさざめきが伝わって来る。

「. . . 紗香さん、まいってるらしくて。小父さんも困ってるんだって。だから、電話しなきゃと思ったんだけど. . . 」
「黒曜君が家に帰らないこと?」
「うん. . . 」私は祐輔から目を逸らした。
「瑠璃が電話しても、どうしようも無いことだろ?」
「. . . だけど、黒曜が悪いんだし. . . 黒曜が紗香さんや子供達を苦しめてるんだもの. . . 」それに誰かが謝らないと、と付け加えた声は小さくなってしまった。
「瑠璃が謝ることじゃないだろ?謝るなら黒曜君だろ?」祐輔はパソの電源を落とした。「それに瑠璃、電話なんてしたらまた落ち込むんじゃない?瑠璃は今さ、自分のことだけ考えてれば良いんだよ」
「. . . でも」
「余計なこと考えると、瑠璃また寝れなくなっちゃうだろ?」
. . . . . . 余計なこと?

キッチンからは食洗機が回る音が聞こえる。今夜は豚の生姜焼きと、海藻のサラダ、具沢山のみそ汁のメニューだった。理想の一汁三菜には物足りないけれど、祐輔は美味しい美味しいと喜んで食べてくれ、私自身もちゃんと食事を作れたことに満足感を覚えていた。

「じゃ、祐輔はマイちゃんや、マヤちゃん、マオちゃんのこと放っとけって言うの?マオちゃんはまだ赤ちゃんなんだよ!」私は冷静さをは失いつつあった。
「瑠璃?」
「だって、誰かが助けないと!子供達だけで、あんなに小さい子ばかりで!」
「瑠璃?落ち着いて?」
両肩をそっと掴んだ祐輔の手を振り払うと、私はサっと背中を向けた。泣いているのを祐輔に見られたくなかった。

. . . 涙を流すのはひさしぶりだった。




「金剛は四人姉弟の末っ子なんです。私と年が九つも離れてるんですよ。感受性が豊かな子で、頭も良く進学校には入ったんです」私は当時を思い出しながら話をした。
白衣を着た多岐川先生はゆっくり頷いた。
臨床心理室はいつものように程よい空調が効き、外来の喧噪から離れ静かだった。

「高校をサボって呼び出された時も、私フレックスを使って仕事の合間に学校まで行きました。先生達はポカンとしてましたっけ」
その時の担任と指導教師の顔は面白かった。マイクロミニのスカートスーツに、波打つ金髪、派手な化粧とネイルをして現れた私に、教師達は呆気にとられしばらく言葉を発することが出来なかった。
「ご両親は?弟さんの高校に行かれなかったんですか?」多岐川先生は静かに訊ねた。
「ええ。連絡先が私の携帯番号になっていましたから」
車で帰ろうと金剛を連れて行った駐車場まで、男の子達が集まって来たんだっけ?後からコンに目立ち過ぎって文句言われたんだった。思い出すと口元がほころぶ。
「学校には何度も足を運びましたが、弟は家を飛び出し帰って来なくなって。そのまま退学してしまいした」その金剛が自力で高卒認定を受けたのだ。私は姉として誇らしく思う。
「ご両親はなんと?」多岐川先生は静かに質問した。
「え?親ですか?もちろん怒ってました. . . 頭の良い子なのに、高校も卒業させなかったんですから。. . . 当たり前ですよね」
「当たり前ですか?」
「はい」
「姉である椙山さんに保護者としての責任を負わせるのが、当たり前だと思うんですか?」
多岐川先生は口を閉ざして、こちらをじっと見つめた。



『あんたが保護者としての責任を取れるって言うのか!!』

雨の日だ。
土砂降りの雨で、車から降りる一瞬でびしょ濡れになるひどい天気だった。廊下でパンプスの足元を滑らせそうになり、私は慌てて壁に手をついた。
視線を感じ顔を上げると、長椅子に腰掛けた金剛と目が合う。
『コン!』
. . . ああ良かった。金剛はちゃんと乾いた服を着ていた。
私の呼びかけに答えず金剛は顔を隠すように俯いてしまった。
『お宅は?』代わりに制服の警官が振り返る。
『高倉金剛の姉です。連絡を頂き迎えに参りました』頭を下げた。
仕事で客先に出ていた私は、携帯に着信があったことに気がつかずそのまま帰宅してしまった。そのせいで金剛を迎えにくるのが遅くなった。もう時刻は夜中をというより朝に近かった。
『お姉さん?親は?親居るんだろ?』私の挨拶に制服の警官はしかめっ面をした。
『はい。父は出張中で連絡が取れず、母は病気で伏せっております』私は中学生の頃から言い慣れたセリフを口にした。
『あんた年は?』警官は私をジロリと睨みつけた。
『二十五です』
『で、あんたまだ十六才の弟さんの保護者やれるの、お姉さん?無理だね!そんなんだから子供が駄目になるんだよ!』
もう一人合流した私服の警官も加わり取り出した書類の罪状を読み上げていく。『窃盗』『深夜徘徊』『飲酒』『喫煙』『無免許』
一メートルと離れていない場所に座っていた金剛の肩がピクンピクンと揺れた。
『子供が警官に補導されて迎えにもこないような親だから、こんな良い高校通ってて補導されるような子供になっちゃうんだ!解る、お姉さん?』恰幅の良い警官は、項垂れている金剛の制服の胸をトンっと指差すとことさら大きな声を出した。
『それでも、あんたが保護者としての責任を取れるって言うのか!!』




祐輔と言い合いをした日から、私はもやもやと心落ち着かぬ気分が続いた。私が一方的に感情を高ぶらせただけで、祐輔は全くこだわっていなかった。
結局、紗香さんの実家を訪ねるどころか電話すらしてない。パパからの電話にも居留守を使ってしまった。

私は考えあぐねて琥珀に電話をした。紗香さんと姪達にしてやれることはないかと?知恵の回る弟に相談を持ちかけた。

『ねぇよ』
一言が返って来た。
だけどと言い募る私に『じゃあな、愛人宅に入り浸ってる父親がたま〜に帰って来ちゃあ母親と大喧嘩って家で、マイやマヤが幸せに育つって思ってるのかよ?』
私はぐうの音も出なかった。
パパの暴力で血を流したママの姿を思い出す。琥珀らしい皮肉な表現だけれど、反論出来る訳がなかった。
『それより留璃子ネエ、親父にあんまり関わるな』
『だけど琥珀、パパは今一人暮らしだし、黒曜だけに負担を掛けることに. . . 』
『アイツは大丈夫だ。黒曜の奴はああ見えて切り替えが早ぇんだよ。右から左ってやつだ。けど、留璃子ネエは振り回されちまうだろ?今は自分のと祐輔君のことだけ考えてろ?良いな?』
『. . . 祐輔. . . 』
『そーだ。自分を大切にしないってことは、祐輔君を大切にしてねぇってことだぞ。そこんとこ解れよ?』
祐輔。ずっと支えてくれた、側に居てくれた、涙を拭いてくれた。
『. . . うん、解った。琥珀、ありがとう』
『旅行楽しんでこいよ』

解ってる。
琥珀の言う事も、多岐川先生の指摘も、祐輔の心配も、頭では理解していた。だけど心が付
いていかない。









シーン6-8 "グラスオブハウス"


オーストラリア旅行は今回で6度目、ケアンズ滞在は4度目になる。

信じられないことに、空港に向かう列車の中で私は緊張していた。祐輔は日常英会話が出来る。常備薬の抗うつ剤と眠剤はちゃんと処方箋付きだ。滞在先のシェラトン・ミラージュ・ポートダグラスは既に三回目の訪問だ。
「瑠璃、僕が付いてるから大丈夫だよ」祐輔は笑いながら冷たくなって手を握ってくれた。

お盆休みのスタート時期ともあって中部国際空港は凄い混雑だった。幸いビジネスクラスのチェックインカウンターは空いていた。手荷物検査を抜けると早速免税店へと向かう人たちの間をくぐり抜け、特別ラウンジに入室した。さすがにここも混んではいたけれど、窓際の飛行機の発着が見える席に座る事が出来た。
ミネラルウォーターを飲みながら暮れ行く空港を眺めていると、不思議に気持ちが落ち着いていった。

サービスの良いビジネスのシートで、私は眠たさに負けてフルコースの食事の後半を断ってしまった。後で祐輔から美味しかったデザートの話を聞き、しまったと後悔したけれど遅い。


青い空。碧い海。白い波頭。熱帯の深緑。
深紅の水着を買った。
日焼けしすぎないよう日焼け止めの上からさらに大きなストローハットをかぶり、パラソルの下のビーチチェアに一日寝転がる。南半球に位置するオーストラリアは真冬だけれど、熱帯雨林気候のケアンズでは冬がハイシーズンだ。
コテージから読みかけの本を持って戻った私に、祐輔がプールから手を振った。隣で白人の少年と母親らしい女性も気さくに手を振ってくれる。
祐輔らしい、もう知人を作ったようだ。
「ハブァラヴリィディ〜!」人の良さそうな女性はニッコリと笑うと、少年を伴い去っていった。
「サンキュアンドユゥ!」祐輔は答え、隣のチェアに腰を下ろした私にニコニコと笑顔を見せた。
その眩しい少年の表情に、胸の奥がホワンとする。
「あの人たちと世界遺産に観光に行くかって話してたんだ」祐輔は説明した。
「へえ〜そうなんだ」
「あの男の子は砂漠をサンドバキーで走りたいんだって!」
「ふふ、で、お母さんは嫌だって?」
「うん!すごい瑠璃なんで解ったの?」祐輔は目を丸くした。
そりゃ、あのエレガンスなお母さんはどう見ても野生派って感じじゃないもの。
「祐輔あの男の子と二人で行って来たら?」私は誘い水を掛けた。
「え?瑠璃は?」
「私はここで昼寝」と、プールサイドをグルっと手で指し示す。
「瑠璃が行かないなら僕も行かない」
「あっはは、でた〜祐輔の口癖」
「だって瑠璃が行かないならつまらないし」祐輔は口を尖らせると、プールサイドバーのメニューペーパーに目を落とした。「瑠璃、お腹空かない?僕、フッシュアンドチップスでも食べようかな?」
「私ねぇ、アイスコーヒーとオペラケーキにしようかな〜?」
祐輔はゲェっと言った。
ここで言うアイスカフィは日本のパフェみたいなもので、いわばお汁粉に大福餅みたいな組み合わせだった。ここ数年でスゴク痩せてしまったので、ちょっとくらい脂肪がついても構わない。厳しい日差しが陰り始めたらプールで一泳ぎするのも良い。

私はあまり忙しい旅が好きではない。旅行に行ってまで朝から晩まで勤勉に観光するなんてごめんだ。素晴らしい美術館や壮大な世界遺産であればなおさら堪能したい。この八日間の旅は何の予定も立てていない。シーフードと堪らなく美味しいスイートを祐輔と二人、のんびり楽しんでいた。
明日あたりヘリでグレートバリアリーフの散歩と洒落こむのも良いかも知れない。朝起きて天気が良ければ申し込んでみようかな?

昼食のメニューを話題に祐輔とたわいのない会話。のんびりとした時間が流れていく。
ああ、なんて穏やかなんだろう?誰も私を急かさない。祐輔の明るい本当に底抜けに明るい笑顔。
私はふいに胸が熱くなる。
と、祐輔がメニューから目を上げ私を見つめた。私の手を取ると指をからめ、そっと自分の頬に持って行く。
「瑠璃、幸せありがとう」
私は言葉に詰まり、ただ祐輔の手を握り返した。





季節は秋。
なのに最高気温は30度を超える日が続いている。
それでも朝夕の涼しさを肌で感じるようになった。夜を彩る虫の音も聞こえた。
旅行以来、私は少し生活に自信のようなものがついた。どう変わったのか自分でも解らないが、不安に落ち込む時間が短くなり、よく笑うようになった。

そして、より祐輔を大切に思うようになった。


あれほど多かったパパからの電話はパッタリとやんだ。
実家の雑用を頼まれないところを見ると、またどこかの女性とつきあいだしたのだろう。あの大きな家にパパ一人で住むのはさぞ侘しいこと思う。ママが死んで二年以上が過ぎた。パパの相手がこの先の人生を共にできるパートナーがであれば良いと願った。


黒曜は相変わらず妻である紗香さんと子供の元へは戻らず、東区のマンションでソヨンちゃんと暮らしていた。
先日、私は祐輔と共に紗香さんに会い話をした。彼女は以前のように泣き崩れることもせず、ただ黒曜を罵り続けた。私に、反論する言葉など見つかるはずもなく、ただ彼女の話を聞き、不肖の弟の行状を詫びた。
紗香さんの父親である高倉建設の渡辺専務も同席したけれど、行状の悪い婿に対して半ば諦めの気持ちを見せていた。黒曜が受け取る役員報酬の半額を生活費として紗香さんに渡していることを、私は初めて知った。

紗香さんの怒りを受け止めた後、私は深く落ち込んだ。やはりと言うべきだ。しかし時間と共に徐々に痛みは薄れ、以前のように自分を取り戻せなくなることはなかった。うつ病特有の気分変調が次第に小さく安定してきたのだ。



高倉建設ビルまで来いと、パパに呼び出されたのは秋も深まった頃だった。肌寒い朝だったので、私はバーバリーのトレンチのライナーを外し羽織っていった。

パパは例のごとく唐突に切り出した。
「留璃子、アレだアレの書類どこだ?」
「え?」アレって言われても。
「ほら、梅の林の!あの地下鉄口の八百坪だ!今年中に更地にするからな!」
「. . . パパ、あの梅の木、お爺ちゃんの、桜も. . . どうするの?」
「ああ、あの梅と桜かぁ?でかくなりやがって、廃棄業者に頼むしかないなぁ!けど高くつくぞ、ありゃ!」
「. . . 切ちゃうの?」
「当たり前だろ!更地にするって言ってるだろうが!」
目の前でイライラとするパパの様子を見ながら、私は思い切って話を切り出した。
「. . . パパ、お願い。お爺ちゃんの土地を売るの、止めてくれない?」
「はあ?!売らずにどうするつもりだ?」
「. . . 公園に、公園にしてほしい。お爺ちゃんの梅や桜の木を残したままで」
「留璃子ぉ、馬鹿かお前は!!」みるみる機嫌は低下し私を睨みつける目が厳しくなった。「あんな所に公園造ってどうするつもりだ!一文の特にもならんぞ!」
「. . . 利益なんて、考えていない」

あそこは子供の頃、お爺ちゃんの家に行くと遊んだ場所だった。春の訪れを梅の花で知り、桜が新学期を伝えてくれた。若葉が萌えるころ連休がやって来て、私の誕生日の前に赤く染まった葉が落ちカサカサと音を立てた。
『この梅の木は留璃子の婆ちゃんが嫁入りした時に、植えたもんだでなぁ』お爺ちゃんは歯の無いお口でふぉふぉふおと笑った。
『お婆ちゃん、お嫁さんだったの?』私はビックリして聞いた。
お爺ちゃんの右手は私、左手には黒曜がぶら下がっていた。琥珀はいつものように私の編んだ三つ編みを引っぱりながら後ろをついてきてた。
まばらな民家の中見渡す限り田畑の続く風景の中、ここだけは切り取られた絵のように梅の花が咲いていた。
白。桃色。紅。もっと濃い赤。
『おうよ留璃子ちゃん!爺ちゃんが赤ん坊だった頃もあるでよぉ』
『ええ!お爺ちゃんがぁ!赤ちゃんだったのぉ!』私達はびっくりした。だってお爺ちゃんはすごく年が大きいのに!いくつだっけ?六十よりもっと大きいんだっけ?
『そいでなも、桜の木は爺ちゃんが生まれたってんで、大爺が植えたもんだわ』
『ええ!!そんな大昔〜?』すごいすごいを私たちは連発した。
『そうじゃ。それでなぁ留璃子達のママがしょちゅうここで遊びよったわ』
『ママがぁ!?』ママも遊んだ?
ああそうか、だからお爺ちゃんのお家に来ると、ママがいっぱい笑うんだね?ママの遊び場だったんだ!
『ふぉふぉふふ!留璃子も留璃子の子供達もここで遊べるよう、爺ちゃんがちゃんと残しといてやるでなもぉ』
『わぁ〜!ありがとうお爺ちゃん!大好き〜!!』私はぼんやりと話を聞いている弟達を叱った。『ホラ!琥珀、黒曜もちゃんとお爺ちゃんにお礼言いなさい!』
『『おじいちゃん、ありがとう!』』
『どういたしまいて。みんなええ子じゃなもぉ。ふぉふぉふふ』

「あそこ、あのお爺ちゃんの土地、梅の木を残したまま、地元の人に開放する公園にして欲しいの」私はぎゅと手を握りパパの顔を見た。「パパお願いだから. . . 」
「馬鹿やろう!!お前は甘ったれた大馬鹿だ!!」みるみる顔は真っ赤になり、怒りで私をさす指が震えていた。「今年中に手続き済ませるからな!直ぐ登記簿、本社に持ってこい!解ったな留璃子!!」
パパ反論を許さじと勢い良く席を立つと、怒りに任せ社長室の扉を叩き付けた。

パパの背を見送った私はやるせない気持ちで体の力が抜けてしまった。

パパ。パパは子供たちに遊び場を残してやると笑ったお爺ちゃんと、いつの間にか同じ年頃になったんだね。パパ。これ以上稼いでパパは何をしたいの?
私知ってるんだよ。
パパは寝たきりになったお爺ちゃんの畑を潰しちゃったこと。
お爺ちゃんの畑はいつの間にかママの空き地になったこと。
その空き地にパパのビルが建ったこと。
本社のビルがある場所、ここ昔小さな祠にお地蔵さんが居たんだよ?
パパ。
私、ママと一緒に赤ちゃんだった黒曜が夜泣きませんようにって、お地蔵さんによだれかけを掛けてあげたんだよ。









シーン6-9 "グラスオブハウス"


タヤマ病院を退院してからもうすぐ一年になる。季節は冬から春へ、夏から秋へ、そしてまた冬が訪れた。

若い小笠原医師は毎回同じ質問を繰り返す。
「睡眠は取れていますか?」「お食事は?」「お通じは?」「変わったことは?」
そして私も同じ答えを返す「はい変わりはありません」と。

小笠原医師は抗うつ剤と眠剤の服用量を減らない。
何故だろう?うつ病の底からずいぶん回復している実感があった。日常生活もそれなり過ごせている。
. . . . . . 前科が、医師を慎重にさせる?私が二度の自殺を図っているから?
それとも臨床心理の多岐川先生から上がる面談の内容を聞いて、減薬を思いとどまっているのだろうか?




パパは、要求を拒否した私を許さなかった。
土地引き渡しを求め凄まじい数の電話があった。私だけではない、祐輔の携帯はおろか、弟達にまで圧力をかけているらしい。皆、私を慮って何も言わないでいてくれるが、マンションの駐車場で待ち伏せたパパの口から漏れた暴力的な言葉の端から伺えた。

私名義の貸金庫に預けてあった登記簿によると、土地はお爺ちゃんの生前に、既に私の名義に書き換えられていた。固定資産税はママが払っていてくれたらしい。ママの死後に口座が凍結されたため税の請求が私の元に転送され初めて知ったのだ。

パパと私達姉弟は、いくつかの土地建物等の不動産を自分名義としている。しかし全て高倉建設とその親族会社に管理運用を預け、実質パパの資産だった。

名古屋市内でも最も開発の遅れた南の丘陵地帯でのんびりと農業を営んでいたお爺ちゃんは大きな地主だった。と言っても何も無い果てしない荒れ地を、お爺ちゃんと大お爺ちゃん、お婆ちゃんの家族だけでコツコツと耕し作ったそうだ。
『採れたのは人参くらいだなもぉ』お爺ちゃんの口癖だった。
大きな田舎作りのお家は庭に鶏が放し飼いになり、柿の木や無花果の木があった。はしご階段で登る屋根裏は、子供にとってワクワクとした探検ごっこだった。何よりお爺ちゃんのお家に行くとママが笑ってくれるのが好きだった。
中学生になりお爺ちゃんの居なくなった家に引っ越すと、そこはパパに手により近代的に住みやすく改修されていた。けれどママの笑顔は消えてしまった。

パパは一度失敗した事業を、お爺ちゃんの土地を元手に成功させた。




「私は商業デザインの仕事が好きでした」思い出すと未だに胸に火が灯るようだ。
「主人と結婚してからも、以前と変わりなく仕事を続けていました。主人の仕事もかなりのハードワークでしたが、朝食と週末は必ず一緒に過ごしました」
どうやって仕事と家事を両立させていたのか思い出せない。
. . . 家事の腕はともかくとして、子供の頃から積み重ねた手際の良さでなんとか回していたのだろう。
「椙山さん、ずいぶん頑張られたんですね?」多岐川先生は大きく頷いた。
彼女の相づちには臨床心理士としてだけではなく、同じ働く女性としての共感が込められていた。
「. . . . . . 結婚二年目だったでしょうか?. . . 病気知らずだったのに、痛みを自覚したのは. . . 」私はしばし躊躇うと重い口を開いた。「生理痛だって思ってました。私も人並みに生理痛を感じるようになったんだなぁ、と. . . 」
「でも毎日痛みを感じて出血も酷くなったので、婦人科を受診しようと. . . 子供、欲しかったので、何かあったらと考えまして. . . そしたら卵巣膿腫があり子宮内膜症*注1と診断されました」
左右にあった卵巣膿腫はチョコレート膿腫と呼ばれるもので、その時は5〜6センチの大きさだった。
「医師が言うには、三十二って年齢を考えると、子供を作っちゃうのが良いよと言われました。妊娠出産が内膜症の治療になるってアドバイスされたんです」
そのクリニックは不妊治療でも有名な医師が経営していたので、そのまま通院する決心をした。
「幸い、排卵や、卵管通水検査、各種ホルモン検査の結果は良好でした」
祐輔の精子検査もしごく健康と告げられ、ホっとしたのを覚えている。結果を聞きに行った時の祐輔の顔ときたら!男っていざとなると弱いものだと思った。

それから私は毎朝基礎体温を測り、デジタルの排卵日記を付けた。
卵巣から排卵された卵子は卵管を通る。上手く受精卵になった後、子宮に着床すれば、それが妊娠の始まりだ。
次の生理日までの間を、私は胸をドキドキさせながら過ごした。もしかして新しい命が私の中に居るかも知れない?と考えるのは、目眩がしそうなくらい幸せだった。

「母が倒れたのはその直後、私たちの結婚二年周年の日でした」
あの季節外れの暑い日。

ママが脳梗塞で倒れ名東市民病院のICUに運ばれたと連絡があったのは、出社直後の打ち合わせ中だった。
名東市民病院のICU扉前にはパパと双子を連れた紗香さんがいた。
「ママ、ママ、は. . . ?」地下鉄の駅から走って来た私は息を切らせていた。
「留璃子姉さん!」紗香さんは立ち上がった。「お母さん、意識が無くて. . . お風呂場で倒れてたんです!朝、子供達をバスに乗せて行ってくれるのに、今日は2階に上がって来ないと思ってたら. . . 」取り乱した口調で答える。
「るりねちゃん。ばあちゃん、おふろでねてたぁ!」幼稚園のスモックを着たままのマイちゃんが無邪気に報告した。
「おふろでねてたよぉ」そっくりな顔の妹マヤちゃんが繰り返す。
「お風呂って、まさか夕べから. . . ?」私はショックを受けた。
「. . . 多分」
紗香さんは腕組みして座っているパパをチラリと見た。
「パパ?ママは. . . 」
「あの馬鹿は、得体の知れない薬なんて飲みやがって!あの薬のセイであんなになったに違いなねぇ!!」いきなり怒鳴りだした。
「パパ?薬って、冷え性の漢方のこと言ってるの?」ママは冷え性と肩こりを緩和する緩やかな漢方を医者で処方してもらってい、ここ数年服用していた。「ねえパパ、それって医者が言ったの?漢方薬が関係してるって?」
「うるせぇ!!ヤブ医者になんて解るかぁぁあ!!」
「パパ静かに。ねぇ静かにして?」私は必死で宥める。
ICUの出入り口の待ち合いには、重傷患者の家族が疲れた顔をして座っていた。紗香さんの手を握っていた双子も、パパの剣幕に恐れをなしてベソをかきだす。
「おい!ちび達、静かにさせろ!」パパは紗香さんに向かって顎をしゃくり上げた。
「紗香さん。マイちゃんとヤマちゃん、幼稚園に連れて行ってあげて。ここには私が居るから」
私が言うと彼女はホっとして子供達を連れて行った。


IUCの面会時間になり、ようやくママに会えた。
小さな体中にチューブが繋がり、心電図がピィピィと小さな音を立てていた。全く意識がないように見えるけれど、耳元で呼びかける私の声に微かに反応した。
. . . ママ、ママ生きてる、ママ. . . 。
「このぉ馬鹿女ぁ!馬鹿目がぁぁ!」ママの顔を見るなりパパは悪態をついた。
私が注意する前に看護婦さんがスっと歩み寄る。
「静かに願います。ここは重傷患者さんばかりですので」
「はぁ?!どうせ死にかけの奴らだ、何言っても聞こえ. . . 」
「パパ」私は悲鳴を上げそうになる自分を押さえ、パパの腕を掴むと耳元で言った。「パパ。ここには私が居るからパパは帰って休んで?」
「留璃子ぉ!てめぇも俺を追い出すつもりか!」
「パパ。ママと違ってパパが倒れたら会社どうなちゃうの?パパは大切な体でしょ?」
「ふん!」パパは私の腕を振り切ると、注意をくれた看護婦さんを睨みつけていから部屋を出て行った。
私は頭を下げて迷惑を掛けたことを詫びると、時間の許す限りママ手を取っていた。


IUCで一週間過ごした後、ママは一般病棟に移った。一時は脳幹部分を圧迫している血腫の切開手術も検討されたが、点滴薬の投与で奇跡的に回復したのだった。しかし右半身は完全に麻痺し左側にも痺れが残った状態だった。背を立てたベッドに座る姿勢を取るのでさえ力が入らず崩れ落ちてしまう。
言葉を発することはもちろん、食事を飲み込むことも難しく、咽せては苦しんだ。ママの目も耳も半分は機能していないと医者から告げられた。

それでもママは生きている。
私は取れるだけの休暇やフレックスをやり繰りして、出来るだけママの側に居た。早々に仕事を切り上げ市民病院に直行するとそのままママの病室で眠った。朝、朝食とママの身の回りの世話をしてから出社した。

ノートパソコンを持ちこみ、夜中に暗い病室で片付けきれない仕事をこなした。手を休めてはモニターの灯りでわずかに照らされるママの寝顔を見て無事を確認した。上司や同僚は私に十分な配慮をくれたが、プロジェクトが始まったばかりの現場リーダーとして仕事を放り出す訳にはいかなかった。何よりこのプロジェクトチームの人事移動直後で、人材自体が圧倒的に不足していた。私が休めば誰かが穴埋めをしなければならなず、その負担は大きい。

昼間は双子を幼稚園に送った紗香さんや、それぞれの仕事を抜け出せした弟達が病室に顔を出してくれた。
そしてパパは、パパは、怒っていた。
ママが倒れた事実に対して、理不尽な怒りを持っていた。それは体の麻痺した妻に、娘の私に、息子達に、義娘と孫に、医師や看護士に向けられた。



ママの病室に泊まり込むことは平気だったけれど、祐輔に会えない日が続くことが寂しかった。
「瑠璃、大丈夫?ね、僕がママに付き添うよ?瑠璃、家で休みなよ」祐輔は気遣わしげに私を見た。
定時で仕事を終えると一時間も高速道路を飛ばし、三河の地にあるタヤマ自動社かから名古屋市内の名東病院までしばしば来てくれた。祐輔だって忙しい、新車の開発チームにいるのだから。
「ありがとう、祐輔」それでも私は祐輔の顔を見るとホっとできた。「私、人の面倒見るの慣れているから」
「瑠璃。週末は僕も瑠璃と一緒にママの側に居るからね」祐輔はママの手を握る私の手に自分の手を重ねた。

面会時間が終わるまでのわずかな温もりが私の支えだった。



注1妊娠準備の為に排卵日から子宮の内膜は徐々に厚くなる。妊娠されずにその内幕が排出されるのが月経。本来は子宮の内側のみである出血が、内蔵等の各位表面に見られる症状が子宮内膜症。臓器の表面に炎症を起こし、本来のすべすべとした状態へ戻そうと治癒する働きが、逆に臓器を癒着させ痛みを引き起こす。ダグラス窩の癒着は発見しにくく痛みも強い。原因は不明。









シーン6-10 "グラスオブハウス"

ママの容態を心配した姉弟の間で当初転院を検討した。この地方で随一の尾張大学付属病院、琥珀の勤務先にだ。

しかし、先進医療を研究する大学病院の性質上、脳梗塞患者のリハビリには限界があるのだという。つまり難治性の高い病でない人は早々に退院させる方針なのだ。
名東病院は市民病院にしては『マシ』. . . 琥珀が言うには、らしく実家から近い事もあり入院を続けることとした。
幸い優秀な理学療法士によるリハビリの結果、ママは回復の兆しを見せていた。


小さな双子を抱えた紗香さんは、疲れ果てた様子だった。
「紗香さん。疲れてるよね?ごめんね。私、明日は有給取ったから、紗香さんは病院に来ないで家に居てね」
「あ、ありがとう. . . 留璃子姉さんは、大丈夫. . . ?」紗香さんは疲れた顔で言った。
その時もぞもぞとママが身動きをした。
「あ、ママ?お手洗いなの?」私は麻痺に歪んでしまったママの顔を見た。
微かに返事をくれた。
「わかったよ。じゃ、まず左手でバーを掴もうか?」私はママの左手を介護用ベッドのバーに誘導した。
医師や理学療法士によると、完全に麻痺したと思われていた右半身も、脳血管の梗塞が除かれたことにより多少は回復すると言う。左半身の麻痺は軽いもので機能はしており、本人が左の知覚を認識すればまだまだ回復するだろうと予測していた。

「ママ!頑張ろうね?大変だけどちゃんと治るように、リハビリ!リハビリ!」力の入らないママの手を上から支え、指導通り背中を起こさせる。

その後ベッドに腰掛けた状態で足を降ろし、リハビリ用の脱げない靴を履てい個室のトイレまで歩くのだ。そこでもママの左手を補助バーに添えてやり、下着を脱がせ便座に腰掛けさせる。介護する人間は麻痺した右側に立ち、ママのパジャマの後ろを掴んで支え一歩一歩進んで行く。ママの全身をグッタリと芯を失っているのでかなりの力を必要とした。
一度お手洗いを往復するだけで、ママも介護する人間もクタクタだ。
それでも看護婦さんが相手の時は返事もせず、全く体を動かそうとしないママが、私には反応を見せてくれる。
寝たきりにさせない為にも、一回一回の用足しが重要なリハビリだと教えられた。

ママは笑顔どころか言葉さえ出さない。私は、愚痴でも良いからママに話してほしかった。ママの声はちゃんと出るのだけれど、話す事を放棄してしまっていた。
. . . . . . だけど私は諦めないからねママ!希望があるなら頑張れる。



生理が始まり、私はお馴染みとなった痛みと闘っていた。夕べから突如激しくなった痛みで、額には脂汗がにじむ。処方薬を飲んでも全く効果はなく座薬まで使い横になるが、狭い付き添い用のベッドでは楽にならなかった。ズクンズクンと脈打つ痛みは、お腹、腰どころか、足の付け根にまで広がっった。
. . . 生理不順なのも、痛みに関係あるのかも知れない。来週、ママの病室に寄る前に診察を受けた方が良いかのな?
また妊娠できなかったとがっかりする気持ちを、こんな時だから逆に良かったのだと自分を慰めた。

「留璃子ぉ!!」パパは部屋に入るなり大声を出した。
「お早うパパ。私、耳遠くないよ」
「はぁ?」
「こんなに狭い部屋で叫んでもらうほど年とってません!」ピッチピッチなんだからとおどけて見せた。
「ははは!朝から元気な奴だなぁ」
パパは私と話がしたくなると、こうやって早朝に病室を訪れるのだ。どこで手に入れるのか、こんな時間だというのに小さなお重のお弁当とお茶を持参している。小さな包みを一つ私の手にポンとくれた。
「留璃子。特別室に替わるぞ」パパは小さなソファーに座った。
「え?この神経内科の病棟から移動できないんじゃなかったの?」
「はははぁ、俺が言えばこんな病院の婦長くらい!」
. . . . . . ありゃ〜!
また、無茶言ったんだろうな?後から謝りに行かなきゃ。琥珀に頼もうかな?
「パパ、私ちょっと体調が良くないの」パパの顔色を伺いながら、私は話をした。「悪いけど、明日は家で休みたいんだけど. . . ?」こうやって普通の顔をして会話するのも辛い。
. . . 私ってこんなに痛みに弱かったんだ?情けないな。
「ああ、じゃ紗香に来させる」
「パパ。紗香さんは無理だよ。子供達が水疱瘡なんだもん」
「はあ?」
「紗香さんを通して、ママにうつったら困るでしょ?パパにだってうつるかもよ?」
「. . . じゃ、琥珀に来させるか?」
「琥珀は医者だよ?勤務を外せる日なら来てくれるけど、今週末は当直だって」
「黒曜は駄目だぞ。入札前だからな」パパはふんぞり返って言った。
「パパ〜、椅子に座ってるだけだから居てくれない?」
「お前、俺に付添婦やらせようっていうのいか!」
「部屋の引っ越しは看護婦さんが全部やってくれるから. . . 」
「この親不孝者!」
「. . . 私、本当に辛いんだけど. . . 」尋常ではない痛みについ弱音を吐く。
「じゃあ、紗香に来させる!」パパはブスっとした表情で弁当を開けた。
議論は堂々巡りしそうだ。
「わかった私来るから、紗香さんには無理言わないでよ?ね、パパ?」痛む腰をさすりながら言った。



部屋の引っ越し準備は簡単だった。荷物は全て看護婦さんが運んでくれる。
ストレッチャーに横たわり移動するママの側で声を掛けながら、一緒にエレベターに乗り来んだ。
最上階の特別室は木目のベッドとプリント柄のカーテンのある、ミニキッチン付きの広い部屋だった。
ママの下に敷かれたシーツを両側から皆で持ち上げ、ストレッチャーからベッドへいどうさせるのだ。
私も手伝おうとシーツの足元部分を掴んだ。
「ああ、スイマセン!ありがとうございます!」若い看護婦さんは私を見て頭を下げた。「じゃ、行きますよせーの!!」
掛け声に、皆で力を合わせシーツをママごと持ち上げる。
瞬間。
. . . っつ. . . !!
私は息が詰まるかと思うほどの激痛を感じた。
あまりの痛みに、膝から崩れ落ちる。
「大丈夫ですか!!」看護婦さんの声。
「. . . っ. . . だ、い、じょう. . . 」私の額には冷や汗が流れ、痛みに目の前が暗くなった。
「どうしました?」隣に居た看護婦さんがうずくまる腕を取った。
. . . . . 痛い、触らないで、痛い. . . . . . 。
「ねえ!付き添いの人、どうかしたの?」
「顔が真っ青. . . ちょっとこの人ショック状態じゃ. . . 」
激しい痛みに吐き気すら覚える。
ああどうしよう?ママに心配かけちゃう。気持ちは焦れど、波のように押し寄せる痛みに体は言う事を効かない。それは陣痛に似た痛みだと知ったのは、もっと後になってからだった。



激しい痛みの原因の一つは右卵巣膿腫注1が破裂したためだった。


『破裂した右卵巣だけなく、左卵巣にも卵管がくちゃくちゃに捻れて巻き付いていました。子宮と卵管、卵巣の癒着はひどく、腸の一部にも軽い癒着が見られました』
硬膜外麻酔横を背中に繋げている私は、ベッドに横向きに寝たまま医師の説明を聞いていた。
『破裂した膿腫を持った状態で強烈に捻れたんですね。腹膜炎を起こしかけていましたよ。. . . 良く痛みを我慢できましたね?』医師は半ば関心したように言った。
『出血もかなりありましたよね?高倉さん、あなたもう少しで手遅れになる所でしたよ』
一緒に医師の話を聞いていた祐輔の手が私の手を握り込んだまま震えた。
『椙山さんが生理不順だと思ってたのは切迫早産の出血です』
私は目をつぶり医師の話を飲み込もうと努力した。
『なんとか左卵巣は残そうと努力しましたけれど、至りませんでした』


私は医師が去った後もずっと目をつむっていた。お腹と腰、足の付け根の辺りが恐ろしく痛み、体中が強ばっていた。高熱があるらしく、看護婦さんが持って来てくれた氷枕と氷嚢を当てていた。
「瑠璃ぃ?. . . 寝ちゃった?」祐輔は小さな小さな声で囁いた。

私は声が出せなかった。
今声を出したら泣き叫んでしまうだろう。
激しくなる痛みに、首筋を汗が伝った。私は看護婦さんに教えられた通り、痛みを取り除く硬膜外麻酔のスイッチを押す。
その仕草に祐輔は再び声を掛けた。
「瑠璃?痛いの?. . . 瑠璃?」言いながら冷やしたタオルで私の額や首筋を拭ってくれる。「可哀相に瑠璃. . . 瑠璃、瑠璃. . . 」
祐輔は時間が許す限り側に居てくれた。優しく髪を撫でたり、私の手を握ったままうたた寝していた。


私はこの優しい人の子を産めなかった。
私はこの愛しい人の子を産めなくなった。

溢れ出す涙をこらえられずに目を瞑ったまま、声を出さずに泣き続けた。





注1卵巣膿腫 子宮内膜症の一つで卵巣内に出血を起し血液が溜まったもの。4センチ〜レモン大の大きさで破裂するリスクを負い、激しいショックを起こす。









シーン6-11 "グラスオブハウス"

ママはリハビリの甲斐あって明日にでも退院できると、見舞いに来た琥珀が話してくれた。

私が入院した後、ママの付き添いは家に通ってもらっている家政婦さんに頼んでいた。その人に退院後のママの介護もしてもらうことになったと言う。私が結婚後に変わった家政婦さんで、愛想は良いけれど家事全般が苦手だった。
私が不安げな顔をしたのだろう、介護自体は専門家に任せるように言い含めておいたので大丈夫だと琥珀は受けおってくれた。
介護保険と実費を使った、ヘルパーや入浴サービスなどのケアマネジャーのプラン全てに目を通してくれたそうだ。琥珀の同僚の老年科医師の推薦による、理学療法士によるリハビリを受けられる施設も見つかったらしい。ここも送迎介護付で、パパや同居している紗香さんの負担を少しでも減らせるだろうと話してくれた。



「留璃子ちゃん. . . 」
祐輔が出勤した昼間見舞いに来てくれた金剛は、私の手を取り泣いていた。
「コン、何ベソかいてるの〜?」
「ママの看病で、無理したんだろ?. . . せっかくママが退院できたのに、留璃子ちゃんが倒れて、俺、俺、ゴメン. . . 」
「コ〜ン、おば〜か!疲れが原因で、お腹切るワケないでしょ?」私は点滴に繋がれた手を伸ばすと末の弟の頬をつまんだ。「手術って言っても、盲腸と一緒じゃない?」
私はあははと笑ってやった。
「ちぇ、留璃子ちゃんスゲェ元気じゃん!」悪態を付きながらも金剛の目は不安げだった。

術後二週間経ち、危惧されていた腹膜の炎症も抗生剤の点により峠を越えたと、今朝医師に告げられたばかりだった。もう一つの懸念だった出血も、ギリギリのところで輸血せずにすんだ。私に血液を提供するためにと金剛の奴、煙草とをお酒を控えてたんだぞと、琥珀がこっそり教えてくれた。
痛みと炎症でかなりの衰弱を感じていたが患部を癒着させないために、ある程度体を動かす必要もあると指導されていた。

. . . 先に退院できたママの様子が気に掛かる。後で実家に電話してみよう。

一ヶ月以上も仕事を抜ける私は、職を辞任しようと思った。しかし直接の上司である企画部長が誠意を込めて引き止めてくれた。私は申し訳なく思いながらも、来月には出社しますと答えた。



「パパ、ママの様子はどう?リハビリ順調かな?」私は電話の向こうのパパに聞いた。
私は退院後、日に2度の電話を日課にしてしまった。
「留璃子!お前ェ人に電話しといて挨拶もなしか?!」
「ああ、ゴメンゴメン!パパは相変わらず忙しいの?無理しないでね〜ぇ?」
「忙しいのなんのって!まあ、体がもたんわ!!」受話器を通してもパパの声はガンガン響く。
私はソファーに寝転がる姿勢を少し変えると、お腹に負担のかからない格好になった。ママの顔を見に行きたかったけれど、琥珀に脅されたらしい祐輔に泣いて頼まれて大人しくしていた。
. . . ったく大げさなのよねぇ。タクシーに乗ってけばどうってことないのに。
「ヘルパーさんはどう?」
「ありゃ駄目だ!まっずい飯作りやがって!!俺の口には合わん!おかげで毎日外食だぞ!!」不機嫌な声。
ママの退院後、週6度ヘルパーさんを頼んでいた。夕方来てもらい、ママの着替えなどの身の回りの世話や、夕食作りとその介助を頼んでいた。家政婦さんにはその間休息を取ってもらい、夜間のお手洗いの補助をお願いしていた。その他の細々としたことは、同居している黒曜の奥さん紗香さんが面倒を見ていてくれる。
長女である私が居ながら、紗香さんには申し訳ないな。
「パパ、紗香さんにワガママ言わないでよ〜?ね?」
「はぁ!あの気の利かない嫁に、なんで俺が遠慮せにゃならんのだぁ!」
「はいは〜い、娘にお嫁さんの悪口こぼすなんて、高倉会長、人間が小さいぞ〜ぉ?」
「うるさい!余計なこった!」パパはさらに大声を張り上げた。「俺は疲れた。週末からちょっと骨休め行って来るからな。札幌あたりに」
「パパ〜ぁ!骨休めにお馬さん達を見に行くワケ?私まだ動けないから、来週にしてくれない?そしたら泊まりに行くから。ねぇ?」私はママの身を考え、やんわりと提案した。
「うるせぇ!留璃子、一々俺に指図するな!紗香も居るんだし、お前は神経質すぎるんだ!」
「パパ、でも. . . 」
「じゃあ、看護婦雇ってやる」
「本当?パパありがとう!!」
資格を持った看護婦さんがママの側に居てくれるなら安心だ。私は気をつけてと、パパを見送る言葉を口にした。



週末、安静にしていようと渋る祐輔を説得し、実家に連れて行ってもらった。まだ、シャワーしか許されておらず、腹圧のかかる動作は厳禁だった。ママの顔を見るだけで、絶対介護を手伝わないと約束するとようやく祐輔は頷いたのだ。

「あれ?誰も出ない」
呼び鈴を押しても反応せず、私は預かっていた鍵で家に入った。
「こんにちはぁ!!」祐輔も後に続く。
手にはママの好き大きな桃を持っていた。柔らかくて食物繊維が豊かなので、食べてもらおうと良い品を探して来たのだ。
「瑠璃!僕、桃冷やしておくね!」
. . . . . . 祐輔にしては気が利くじゃない?
「ありがとう、祐輔!」
私はママの部屋の扉をノックすると呼びかけてみた。
「留璃子だよ〜ぉ!ママ、入るからね?」

目に入った風景に私は息が止まった。

電動式のシャッターの降りた部屋は薄暗く、ベッドの枕灯がわずかに横たわるママの痩せた顔を照らしていた。閉め切った部屋に籠る臭気と熱。
「ママ?ママ?」
十月とはいえまだ日中の気温は高い。なのに空調からは暖かい空気が吹き出していた。
私は近づいてそっとママの顔に触れた。皮膚は、熱いのにとても乾いていた。
「ママ?. . . 眠ってるの?」
そっと揺すって見るが反応が無い。唇はかさかさでひび割れ、ほの暗い灯りの下でも血の気の無い顔色が見て取れた。
ふとベッドに付いた手に暖かさが伝わる。
. . . . . . 電気毛布が付いてるの?息苦しいほどのこの部屋で?
「瑠璃?. . . わっ!何この匂い!」追いついた祐輔が思わず叫んだ。
「. . . 祐輔」
私は背後に立った祐輔をすがる思いで見つめた。
「ママ、意識が、な、い. . . . . . 」
どうして?どうして?


救急車に乗り込んだ私は搬送中に隊員から声を掛けられた。
『おむつ、いつから取り替えてないの?あんたお嫁さん?』
私はのろのろと首を振った。
『ふん、娘さんか。で、お母さん、いつから意識無いの?』
再び首を振る。
『解らないって?ちょっと、あんた. . . ハァ』大きなため息を付くと、彼はそれきり黙り込んだ。


救急病棟の待ち合いに立っていた私は、肩をポンと叩かれた。
琥珀だった。
そっと私の腕を取ると近くの椅子に座らせ、琥珀は近くを通る看護婦を呼び止めた。一言二言かわすと、そのまま一緒に処置室に入って行った。

一足遅れて祐輔が玄関から姿を表す。車で救急車の後を追って来たのだ。
「瑠璃?大丈夫?」私の隣に座ると手を握った。「琥珀君の車あったけど、僕より先に着いたんだね?黒曜君と金剛君に連絡取れたよ」
私が頷くと祐輔は言いにくそうに付け加えた。
「パパの携帯. . . 電源入ってないみたい」

現実感のない時が過ぎて行く。
ふわふわと、物語の舞台を上から眺めているみたい。自分の役を演じている役者と、相手をする役者のセリフが、ぼんやりと頭に流れ込んできた。

『高倉さんは、再び脳梗塞をおこされました。それから脱水症状もひどく、腎不全のため意識が混濁しています』救急外来の医師は一言づつ琥珀の表情を確認した。『人工透析の必要が. . . あると思われます』
日曜の夜、見舞いを終えて帰る人々と見送る患者の姿が、扉にはめられたガラスから見えた。
『ご存知のように、人工透析には近親者のサインが必要となりますが. . . ?』若い医師である琥珀に向かって、さらに若い医師が遠慮がちに告げた。
『琥珀?私達がサインすれば良いの?』私は聞いた。
早く早くママを助けて!
『. . . 親父が、するとこだ』
『琥珀兄ィ?親父掴まんないんだぞ!どうすんだよ?!』金剛は兄に食って掛かった。
『同居家族なら、黒曜でも良いんじゃないの?』私はもう一人の弟の名を挙げた。『四国からの最終に間に合うって言ってたんでしょ?黒曜なら. . . 』
『留璃子ネエ。金剛』琥珀は私を見つめ、弟を愛称ではなく名で呼んだ。
『何だよ?』金剛もその雰囲気を感じ取ったようだ。
『お袋の梗塞は脳全体に渡っている。薬で脳圧が下がっても、動けるまでは回復しないだろう』淡々と語った。『臓器も全体に弱ってる。腎臓だけでなく心臓の動きも弱っている』
『嘘だぁ!』金剛。
『今夜にでも急変するかもしれない。覚悟をしておけ』
『琥珀兄ィ!』金剛は自分より背の高い兄に、体ごとぶつかっていった。『何とかしろよ!!琥珀兄ィ、医者だろ!ママ助けろよぉぉ!!』
『コンちゃん』祐輔が金剛の手を取った。
『どうして?どうしてだよ. . . ?』せっかく良くなったのに、退院できたのにと金剛は繰り返しつぶやいた。

私も心のなかで繰り返した。どうして?どうして?どうして?



人工透析をする前、翌朝にママは息を引き取った。
閉じきらない瞼を薄くあけていたママは、ハっと大きな呼吸を一つすると永遠にその目を閉じた。
目の前にいる私はなすすべもなく、生命時装置の立てる警告音を聞いていた。

『ママぁぁぁ. . . ぁぁああああぁあぁあぁあ!!』
金剛は握ったママの手を振り、悲鳴を上げた。
『. . . . . . くっ. . . うぅ. . . うっ. . . ぁ. . . . . . 』琥珀はその大きな体をガバっとベッドに伏せ、堪えきれない嗚咽を漏らした。
隣に座る黒曜も、椅子を蹴倒すように立ち上がるとママに覆いかぶさった。
『うぁうぁうぁぁあ、うあっ、うっ、あっ、うううああああ. . . 』
『っママが. . . 瑠璃. . . あああぅぁぁぁあっあっああ. . . 』祐輔は私を後ろからギュと抱きしめた。全身の震えが体を伝う。

コン、そんな泣きかたして、まるで赤ちゃんみたいだよ。
琥珀が泣くの見たのいつ以来だろ. . . 木から落ちた幼稚園の頃だっけ。
黒曜の大きな体でママつぶれちゃうよ。大きな声もうるさいって。
祐輔の泣き声、私の頭に響いて来てるよ。ぐぅわんぐぅわん。

私はホロホロと頬を伝う涙を感じながら身動き一つせずに腰掛けていた。



パパが姿を表したのは次の日だった。



     〜 次回最終章 シーン7 "ルーズユアセルフ" へ続く







シーン6"グラスオブハウス" 後書き

経済的に恵まれた高倉家で何不自由無く育ったように見える留璃子達姉弟は、それぞれに心の傷を背負って生きています。

家族という絆は脆いガラスの家の中でどんな役割を果たしているのでしょうか?

次回シーン7"ルーズユアセルフ"は最終章となります。お気づきの方も多いと思いますが、Lose yourself は映画『8mie』のサントラ曲のからインスピレーションを得たタイトルです。たった8マイルの距離が多くを隔てているのだと主演のエミネムは血を吐くようなリリックを披露していました。

留璃子や取り巻く人々は、8マイルの向こう側へ渡る事が出来るのでしょうか?

いつもコメントを下さる方々、読んで下さる方が、訪れて下さる方が、メールを下さった方が、本当に感謝しております。





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Author:kyorori
登場人物、治療内容、医療機関は全くのフィクションです。病院やお薬について、仮にも参考にできたらな?と訪れて下さった方には申し訳ありません。ゴメンナサイ。

葛藤や苦しみは限りなく本物で、この小説を自己発散の場として使っています。実話より小説の方がより表現しやすいと考えての行動で、もし少しでも理解して頂けたら幸いです。

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