小説〜辿り着いたは精神病院?

資産家のお嬢様で良家の奥様。仕事良い夫、多くを持てる彼女は死の願望に取り憑かれていた。前を向き強く生きていた瞳はもう暗闇しか映さない。警告:小説と現実の区別がつかない人は絶対読まないで下さい。

シーン4 "ホテルカリフォニア"総集編

   文芸3131
 

*警告*このブログには自殺、流血、薬物、飲酒、精神病治療のシーンが含まれます自己の責任で対処できる方、小説と現実の区別がつく方のみ閲覧して下さい。








シーン4-1 "ホテルカリフォニア"

お腹の底からそわそわと不安が広がってく。体を満たしていく黒。
怖い。怖い。怖い。
暗闇に呑まれぐるぐると落ちて行く。
永遠に底の見えない螺旋。
押しつぶされてしまう。
体の中から押しつぶされてしまう。
暗黒の中で息がつまりもがき苦しむくらいなら、自分でけりを. . . . . . . . . 。

「瑠璃?」
突然掛けられた声に私は体をびくつかせる。
「瑠璃、どうしたの?電気も付けず?」不安を含んだ心配そうな声。
「ゆ、う、すけ?」
床にうずくまった私を助け起こそうと触れた手がビクっとした。「瑠璃、冷たい。体、冷たいよ」
部屋の灯りがパっと点いた。
柔らかな間接照明さえ眼に痛く、とっさに顔を覆う。
「瑠璃?泣いてるの?」覗き込んだ祐輔こそ泣きそうな声を出した。

「留璃子ちゃん. . . 」
後ろから掛けられた声に、私は再びビクついた。
「留璃子ちゃん大丈夫?琥珀兄ィ、留璃子ちゃん診てやってよ」

金剛の声。琥珀も居る?

醜く泣きはらした顔を手のひらで覆い隠しながら、私はリビングの入り口を振り返った。

「騒ぐなコン。お前、タオル持ってこい。留璃子ネエ、薬は飲んだ?」琥珀は長い髪を振り乱しぐちゃぐちゃな顔をしている私の姿に、眉一つ動かさず冷静に質問した。
「ソファー座れよ。祐輔君も隣に座ってやって」声色はあくまでも優しく落ち着いていた。

琥珀は私達を座らせると、自分はリビングテーブルに軽く腰を掛けた。
「留璃子ネエ、薬は飲んだか?」私の手首を軽く掴むと、辛抱強く眼を合わせた。「不安な時に飲みなさいって貰った薬だよ」
「. . . . . . 」
「一錠は飲んだ?」重ねて聞く。
私はあやふやな記憶を辿る。. . . 昼過ぎに、飲んだ?
小さく頷いた。
「そうか。偉いぞ」琥珀は励ますようにニッコリと微笑んだ。
「琥珀君、瑠璃どうしちゃったかな?」私の隣で手を握っていた祐輔は、動揺の隠せない声色で質問した。
「そうだよ、琥珀兄ィ!瑠璃ちゃん、琥珀兄ィの病院に入院したのに、なんでこんなんだ!こんなに、泣いて. . . 」
金剛は琥珀に睨まれ口を噤んだ。
「祐輔君、頓服薬持って来て。コン、お前水持ってこい」命令を出すことに慣れた人間の指示に、二人とも素直に従った。

私は差し出された薬と水を飲んだ。


パチンコ店に住み込みで働く金剛は忙しいお盆休みが明け、退院後に元気になったであろう私の姿を見に来てくれたらしい。すっかりしょげ返り、ソファーの隅にポツンと座っていた。
ローズウッドのダイニングテーブルの上に、ケーキの箱。私の好きな、大きな大きなカットのケーキ。金剛のお土産だ。


私は祐輔の膝枕でソファーに横たわった。
汗で冷たくなったパジャマ、朝から替えていなかった、を乾いたスエットに着替えタオルケットを掛けてもらった。眼を冷やすようにと当てた濡れタオルで顔を覆う。

「琥珀君。瑠璃、どうしちゃったのかな?尾大病院を元気になって退院して、まだ一週間しか経ってないのに」祐輔の沈んだ声。
「琥珀兄ィ。入院したのになんで?留璃子ちゃんは、治ってないのか?」金剛も声を潜めている。私が眠っていると思っているのだ。
「あのなぁ、治るとか治らないとか境目なんて無いんだよ。少しづつでも元気を取り戻して、いつの間にか良くなっていたって病気なんだ」琥珀は静かに言った。
「でも、瑠璃大丈夫かな?一人で家に居て」
祐輔の問いに琥珀は一旦口を噤んだ。
「そうだな、、」珍しく言い淀む。「あそこは小児精神科が混同された病棟だったからな。留璃子ネエには良くなかったかもしれない。もっと、療養型の落ち着いた所を探せば良かったんだろな」
「なんだ、琥珀兄ィ!頼りねえこと言ってんじゃねえよ!」
「静かにしろコン」
「コンちゃん落ち着いて」争いの嫌いな祐輔は必死で取り成す。「たしかにさ、子供達が可哀想って瑠璃言ってたけど、琥珀君のせいじゃないし。琥珀君のお陰で看護婦さんに良くしてもらったんだろ、コンちゃん?」
「. . . . . . 」


私は弟達に醜態を見せた恥さえ感じなくなっていた。姉として、高倉家の長女として、弱みを見せる事を良しとしなかった私が。

「ごめん、コン。ごめん、琥珀」私は横になったまま口を開いた。閉じた目蓋から再び熱い物が流れるのを感じる。幸い濡れたタオルが全てを吸い取ってくれた。
「ごめん、祐輔。私、もうどうしたら良いか解らな、い. . . ごめ. . . . . . . . . 」
「瑠璃?何、謝ってるの?」祐輔は戸惑いながら私の髪を撫でた。
「瑠璃子ネエ、謝るなよ。留璃子ネエは病気なんだ。謝ることないぞ」
琥珀の安心させる口調にも、私の心は反応しなかった。


あちらこちらへ電話をした琥珀は一枚のメモを差し出した。



翌朝、祐輔は又仕事を休み私を病院へと連れて行った。









シーン4-2 "ホテルカリフォニア"

ガラス張りの待合室は激しい真夏の日差しを浴び、空調の効きが悪く熱かった。

にも関わらず、私の手は冷たかった。

隣に座った祐輔は、その大きな手で私の指先を包み込むよう握りしめてくれた。そんな彼の仕草だけで以前はあれほど心暖かく感じたのに、今は手と同様心も冷たく固く凍っていた。


『タヤマ病院』はタヤマ市の丘陵地に建てられた、小奇麗な私立精神病院だった。白いタイル貼りの外観は屋上にあるここが病院だと知らせる看板さえなければ、企業の保養施設か何かと勘違いされそうだ。

”療養型の入院施設がある病院”と琥珀は言っていた。
療養って、、、、?

タヤマ市は同じ愛知県内にありながら名古屋市から高速道路で行き来する距離にあり、未だに手つかずの自然も残るのどかな土地だった。
祐輔の努める『タヤマ自動車』の本社のある市の中心部ではそこそこ街で繁華街らしき通もあるけれど、少し離れれば昔ながらの大いなる田舎だ。このタヤマ病院も緑と畑、小川と、遠くに三河湾を望むことが出来た。これで温泉でもあればちょっとしたリゾート施設としても使えそうなロケーションだった。


黒い御影石張りのこじんまりとしたロビー兼待合室は、座りきれない人で一杯だった。感じ良く観葉植物が配置され、高い天井からはシンプルなオブジェが下がっている。
顔見知りらしい看護婦さんと談笑する患者さんも居た。受付の女性まで全員がピンクの制服を着ていた。

待ち合いのなかには十代らしき人も混じっていたけれど比較的年配者が多かった。田舎町らしく、農作業の途中を抜け出して来たような姿のおばあちゃんの姿も合った。

私は伸びすぎてどうにもならなった髪をお下げに纏め、ダブダブのジーンズにTシャツを着ていた。もう身に付ける物に対する興味など完全に無くしていた。
隣に座る祐輔はラルフのポロにチノパン。刈ったばかりの髪は爽やかでまさに好青年。
この場所にもっとも相応しくない姿をしているなぁと、ぼんやり考えた。



「そうですか。尾大病院にいらっしゃった?そうですか」
院長と名乗る人物はウンウンと大げさに相づちを打った。
彼は大きな眼鏡に合った大きな顔をしていた。40は過ぎているだろうが、思ったより若い。
「で、椙山さんは、あまり合わなかったんですね。そうですか。」院長は私や祐輔の返事も聞かずに話を進める。「ウチはね、もちろん大人だけの専用病棟です。特に椙山さんみたいななうつ病の患者様に必要な設備が整っていおります。少しは騒がしい方もいらっしゃいますよ。しかし病棟は全く別になっていますので、静かに療養できます」

祐輔は不安げに身を乗り出した。
「あの、先生」
「はい?」
「治るんでしょうか?」
「はい、もちろん治りますよ」
医師のあっさりとした答えに祐輔は驚いたように念を押した。
「本当ですか?」

無理も無い。
私がうつ病と診断され治療を始めてから一年以上が過ぎていた。先の見えない暗いトンネルで出口が見いだせず、もがき彷徨っている状態がずっと続いているのだ。
医師の安請け合いなど、信じる気すら起こらない。

「治療と療養。両方の環境さえ整えば、うつ病は治って行くものですよ」院長は励ますように再び大きく微笑んだ。「ご家族、旦那様の不安は良く解ります。はい。それで奥様は入院されますか?生憎と部屋の空きが来週末までありませんので、予約されますか?」

診察と言うより極上のセールストークを聞いている気分だ。

「あ、来週. . . ?」祐輔は私の顔を見た。
「個室」思っても見なかった言葉が口をついた。
「え?」
「個室、じゃないと. . . . . . 」
院長は私達の会話を引き取る。「そうですか。個室を希望されますか」
と、いきなり受話器を取り上げ何事か話を始めた。彼は前に座る私たちに大きな笑顔を向けると片手手で受話器の口を押さえ言った。
「そうですか。個室ですか。ちょうど、今日退院される方がいらっしゃいます」


入院するともしないとも言わないまま、私の予約は確定された。









シーン4-3 "ホテルカリフォニア"

タヤマ病院では11時までに入院手続きを終える規則だった。

自宅マンションのある名古屋の覚王山からタヤマ市まで、高速を使っても所要時間は四十分超。朝のラッシュを考え早めに家を出た私達は、午前10時には病棟に案内されていた。
祐輔は手続きを終えるとそのまま出勤した。
自宅マンションより、タヤマ病院からの方が会社までずっと距離は短い。ラッシュを外れたこの時間帯なら高速一区間を利用し、十五分かからないそうだ。



見知らぬ所に入る不安に、私は冷や汗をかいていた。

胸は煩く動悸を打ち、いつの間にかハアハアと浅い息を繰り返している。
さっそく通された個室でも荷物の整頓さえ出来ず、ベッドの隅で自分の膝を抱え小さくうずくまった。



『お知らせいたします。昼食の準備が整いました皆様ロビーへおいで下さい』

放送に、ハっと我に返った。
腕時計で確認した。時間は正午を指し示していた。

一時間も経ってる?. . . . . . いつの間に。

食事を断りたかったけれど、病院でそんな勝手は許されない。

おずおずと扉を開くと看護婦さんと鉢合わせそうになった。
「ああ、椙山さん!お席にご案内しますね!」小太りの看護婦さんは朗らかに言った。


私の入院した個室はタヤマ病院の第二病棟三階だった。
この病棟のただ一つの出入り口はやはり詰め所の隣にあり、面した場所がロビーだった。病室はそのロビーをぐるりと取り囲むように配置されていた。正確には解らないけれど10床以上ありそうだった。
食堂にも使われるロビーは明るく家庭的な雰囲気で、大きな出窓は見晴らしよく、高い天井と相まって開放的な雰囲気だった。

いくつも並んだ丸テーブルを数人で取り囲み、静かに食事は進んでいた。

チラリチラリ視線を感じる。足が竦んだ。

「椙山さん、こちらのお席にどうぞ」
促されるまま看護婦さんに案内された席に座った。
「こちら、椙山さん。皆さんよろしくね」
彼女に紹介され私は頭を下げた。「お願いします」

四人掛けのテーブルでは二人のお年寄りが静かに食事をしていた。美しい白髪を奇麗に整えた品の良い痩せたおばあさんと、対照的に下町の匂いを醸し出しているとても小柄なおばあさんだった。二人とも70才に手が届く位の年齢だろうか?

二人とも看護婦さんの言葉に微かに頷いたように見えたけれど、私に視線を向けることは無かった。

ホっとした。


食事は喉を通らなかった。
プライベートの確保された個室へ逃げ込むように戻った。
そわそわとした不安が体内を浸食し続ける。いたたまれない気持ちに、狭い室内をウロウロした。手持ち無沙汰に大きな窓のブラインドに手を伸ばす。

眼に飛び込む一面の緑。
緑。
緑。

圧倒的な自然の景観に、私は目眩さえ感じた。木々の向こうには緑の畑が広がり、遠くにキラキラと光っているのは海だ。見事に晴れ上がった空の下で三河湾に浮かぶ小島の数々まで見渡すことが出来た。
普通の感覚ならば美しいと感じるのだろう。静かで良い所だと思えるのだろう?でも私にとってとても寂しい景色に見えた。

私は街っ子だ。ここで”暮らす”など島流しに等しい。

手に持った携帯をもて遊びながら祐輔にメールを打とうか考える。就業規則の厳しい上場企業だけに仕事中の私用電話は御法度。しかし先進の開発プロジェクトを受け持つ現場だけあってメールのやり取りには制限が無かった。祐輔は携帯メール、仕事用、二つの私用アドレスにどこからでもアクセスできるようにしていた。

寂しいよ、祐輔。
メールの文字でも良いから祐輔の存在を感じたい。
募る思いとは裏腹に、まるで麻痺してしまったように体は動かなかった。
祐輔。
エレベーターさえ降りれば直ぐに非常口があり外に出られる. . . そしたらメールして. . . . . . 。

私の替わりに入院案内を読んでくれた祐輔は、携帯の持ち込み許可を知り大げさに喜んでいた。何時でもメールしてくれ、会議中だってトイレ行く振りして返事するから、と張り切っていた。

勿論、建物内では電源をオフにする必要はあるけれど、タヤマ病院の2病棟は閉鎖病棟では無い。朝七時から夕方の六時までの出入りは自由、その間の通話も自由だった。

売店や、広い敷地内を散策するのに許可は要らず、外出時も事前の申請は必要なくカウンターのカードにメモするだけで良かった。行きたければ買い物やランチに出掛けることも可能だ。
ただし、半径四キロに店は無く、電車はおろかバスの路線さえないと聞いた。この辺りの地理には疎いけれど窓から見渡す限り”店”らしきものは無さそうだ。

寂しい。寂しい。寂しいよ。

コンクリートの監獄が嫌だった。
医師を欺いてまで逃げ出したのに。
ココは自由だって聞いたけど?
だけど何この閉塞感は?
隔離されてしまった疎外感。


開けた大自然までが私を押しつぶそうと迫ってくる. . . . . . . . . 。

私は、再び檻に入ったんだ。









シーン4-4 "ホテルカリフォニア"

朝食は八時から。起床時間は決められていない。
十時に消灯。ベッドを離れるのは自由。
お手洗いに起きた深夜、ガラス張りの喫煙室で煙草を吸っている人を見掛けた。
病棟の扉は一つしか無いけれど鍵は掛かっていない。施錠は夜間のみだ。
敷地内はむろん外出自由で、敷地外の外出もメモ書き一つで自由だ。
面会時間は朝食後から夜の9時までいつでも自由。
洗濯の干場は屋上にあり、ココももちろん自由に出入り出来た。

『この辺は川もあってフラつくと危ないですから。ご主人、迎えに来て下さいますか?そうですか、ではご主人と車でこの辺りの景色を楽しんでくださいね』外来での院長の言葉。つまり”一人で敷地外へ出るな”と言う意味だ。思い出せば苦々しい気持ちになった。
前科。
自然に言葉が浮かぶ。”自殺企画”と表現されるらしい。そう、二度の前科持ちゆえんに、この解放病棟でさえ外出制限されたのだ。私のためらしい。
私の. . . . . . . . . 。



この個室の設備は洗面台のみだった。バストイレ付きの特別室は当面空きができないそうだ。不満だったけれど仕方ない。
今時、週に3度しか風呂に入れない病院もあるらしいが、タヤマ病院では毎日入浴できた。当たり前のことだけれど、当たり前でない所も多いらしい。

午前と午後で男女を入れ替える大きな浴室は、一流旅館並みの清潔さだった。簀の子の敷かれた更衣室から風呂場に入ると、パァと眩しい午後の日差しが大きな磨りガラスから差し込んでいた。
6~7は入れそうなステンレスの浴槽、真っ白な目地のタイル、シャワーや桶も掃除が行き届いていた。

黒っぽい水垢の存在を無意識の内に探していた。見つからずホっとする。

しかし、私は大勢の利用する湯船に浸かるのには抵抗を感じた。
怠い体にサっとシャワーを浴び、私は浴室を後にした。
部屋に戻る途中、食事を同席しているおばあさんが看護婦さんと共に風呂に向かうのに行き会った。小さな歩幅の頼りない足元。
私とはロビーを挟み反対側の個室にいるらしい。風呂の介護を必要とするあの年で、うつ病と診断され一人個室で入院生活を送る気持ちを考えると、やりきれない気分になった。


明るいロビーには一人がけのリラックスチェアーがポツリポツリと配置されている。
食事中は丸テーブルと椅子が持ち出されちょっとしたカフェの雰囲気になった。
医師である弟の琥珀の言う通り、ここタヤマ病院は療養型の入院施設らしい雰囲気が漂っている。穏やかで優しい人々。静かで落ち着いた空間。

何故、私の心はざわざわと波だっているの?





「リラックスして下さいね」優しい声で言われ、返事をする声が震えた。
私は薄暗く静かな部屋で横になっていた。
『第三検査室』で待っていた検査技師は、患者を落ち着かせる優し気な風貌をした中年男性だった。
「椙山さんごめんなさいね。気持ち悪いですよね?」彼は言いながら冷やりとしたジェルを私の頭に塗り、さらに丸い何かを着けていった。「全然痛くありませんからね。安心して下さいね」
「は、い. . . 」尾張大学附属病院でもこの検査の経験はある。怖いのではない。
否、怖いのだ。
自分が生きて呼吸していること、この場所に存在していること自体が苦痛で恐ろしい。
「ではリラックスできる音楽を掛けますね。何も考えずにのんびり横になっていて下さい」
「. . . はい」
「椙山さん、空調、寒くはないですか?毛布掛けますか?」
「いいえ. . . 寒く、ないです」
早く、早く、終わってほしい。この場を離れたい。




労りの滲む優しい声に送られ第三検査室を出る。私は疲労でぐったりしていた。ただ横になっていただけだと言うのに情けない。一階から病棟のある三階までの距離さえ、エレベーターを使うしか無さそうだ。

私はふと時間に気づいた。12時を過ぎている?祐輔に電話できる時間だ。

祐輔、オープンと共に食堂に駆け込み10分で食事を済ませてしまうさと、いつも自慢していたっけ?
病棟での昼食はもう始まっているだろう。髪も先程のジェルでグチャグチャだ。

だけど昼食を終えた後、再び一階まで降りる。目の前に見える重い扉を開ける。そして建物の外に出る。. . . 出来そうも無い。


「もしもし瑠璃!」携帯の向こうから祐輔の弾んだ声。「瑠璃、写メ見てくれた?ウケた?ウケた?」
「うん、ウケた」私は答えた。
昨夜、個室を幸いとこっそり携帯の電源を入れたところ、受信メールの多さに驚いた。返信する苦痛から逃れるため、パソと携帯のメルアドを変えていたのに。新しいアドレスは兄弟以外誰にも知らせてはいない。

『10件のメールを受信しました』
あり得ない数に、スパムを送られたと思った。

『発:祐輔 瑠璃ゆっくり休んでね 大好きだよ 』『発:祐輔 会議抜けた 今瑠璃から電話くればいいのにな 後3分粘ろ』『発:祐輔 愛してるよ瑠璃 会いに行くからね寂しくないよ』『発:祐輔 ゴメンネ!今日残業 瑠璃に会いに行けない』『発:祐輔 瑠璃. . . . . . 』
そして最後のメールは写メールだった。自分で撮ったアングル。ご飯粒を顔中に付け、大きなオニギリを口一杯頬張っている姿は祐輔らしいかった。

メールタイトル『バクダンにぎり』

私は体中の力が抜ける思いをした。以前なら大笑いしただろう。
そっと液晶の表面を撫でた。
祐輔。祐輔。祐輔。今は何故だか涙がこぼれる。発信は日付が変わり午前1時15分。

「へっへぇ!瑠璃のためだったら、僕の顔くらい毎日送るよ」祐輔は得意そうに笑った。
『癒し系だよね、祐輔の顔』昔、私の言った台詞を覚えていたのだろう。
「ありがとう祐輔、、」胸が痛い。
罪悪感は私の心臓を握り潰そうとしている。苦しい。痛い。

「すっぎやぁまぁさぁ〜ん!!!」
突然自分の名を呼ばれハっと顔を上げる。

周囲には誰も居なかった筈?
「瑠璃?」突然途切れた会話に、祐輔が心配する。
「あ、何でない」
「でね、今日も残業。ごめん瑠璃。瑠璃さ、僕、行けないと寂しいよね?夜眠れ. . . 」
「す・ぎ・や・ま・さぁぁぁぁぁぁあん!!!!」
再び呼ばれ、少し離れた場所で手を振っている人陰を見つけた。
あの人、誰だっけ?
思いながらも片手を上げ、軽く手を振り返した。
「椙山さ〜ん!こっち来ない?!」売店脇のベンチに座った人物は大きくて招きをした。
「瑠璃?なんか騒がしくない?」静寂を破るその声色はデジタル処理されてもなお、祐輔の耳元まで伝わったらしい。「騒いでる人いる?大丈夫なの瑠璃?瑠璃、逃げなよ」
「あ、大丈夫。誘ってくれてるみたい」
私は通話中だと知らせる為に立ち上がり、耳に当てた携帯を大げさなジェスチャーで指差した。
「瑠璃、もう友達出来たんだ!良かったね瑠璃」祐輔はお人好しらしい喜び方をした。
大声の主は両腕で大きな丸を作っていた。了解したらしい。
私は軽く頭を下げ。壁にもたれるようにしてさり気なく横を向き視線を逸らせた。
「. . . うん。. . . . . . それより祐輔、仕事忙しいんでしょ?寝不足で高速を運転なんて危ないよ。こっちへは無理して来ないで、早く帰れる日は睡眠時間取ってね」
「運転くらいヘーキヘーキ!三河の人間を舐めるなよ!」カラカラと笑う。「瑠璃の顔見たら疲れなんてフっ飛んじゃう」




看護婦さんは皆にこやかで、検査の為に歩いた廊下ですれ違った医師や技師、事務方の人まで皆笑顔で挨拶をしてくれた。

部屋を訪れる看護婦さんは、かならず呼び出しコールで予告してから来てくれる。ズカズカとこの狭いテリトリーを侵される心配は皆無だった。

なのに何故こんなに鼓動は早いのだろう?
冷や汗が背を伝う。手足は冷たい。

適度に空調の効いた室温は快適なはず。

ブラインドから見える星は美しかった。真っ暗な夜空で冷え冷えとした光を放つ。街中では見られない光景。

星は、夜が白むまで見つめていた私の体をも凍り付かせてしまった。








シーン4-5 "ホテルカリフォニア"

女風呂に男性が居る。

私は浴室の引き戸を開けたまま固まった。

180センチはありそうな肩幅の広い男性は、鏡の前でドライヤーを使っていた。
「ああ椙山さ〜ん!こんにちはぁ!」くるりと大作りな顔を向けニッコリと笑った。
「. . . あ、こんにちは. . . 」あれ?もしかしたら女性?

私は目の前の人物を必死で観察した。祐輔と同じくらいの体格をジーンズと開襟シャツで包んでいる。強そうな短髪を梳く大きくごつい手。唇の上には薄らとヒゲ?. . . 胸は無い。ガラガラとしたハスキーボイス。
しかし、脱ぎ捨てた着替えの下着は淡いピンクのどう見ても女性物だった。

「椙山さん、この前は電話中にごめんなさいね」かの人物はドライヤーの騒音に負けじと声を張り上げた。
「あ、いいえ」
「私、児玉小百合と申します。よろしくお願いしますね」丁寧に頭を下げる。

女性、だったんだ。

自分がぼけっとしていたことに気づき慌てて頭を下げた。「こちらこそ、お願いします」
「いえいえ、こちらこそ。椙山さんはここは初めて?私は6年居るんですよ。と言っても2病棟と1病棟を行ったり来たりしてるんですけど」
「はあ、そうですか」
「この2病棟は解放だから良いけど、1は閉鎖で中でも三階は最悪なんですよ。この2病棟は新しくて奇麗でしょ?2階も3階も部屋代は同じだけれど、やっぱり3階の方がねぇ良いのよぉ、」
私の戸惑いを他所に、児玉さんの話は延々と続いて行く。
「でね、この病院のタヤマはタヤマ市から取ったんじゃなくて、田山医院長の田山から取ったんですよぉ。知らない人が聞いたら、あのタヤマ自動車の関係かと誤解するようにカタカナにしたんですって」
ガラガラ声を裏返した慇懃な程優しい話し方。
いわゆる猫撫で声に、私の背中は微かに震えた。


私と食事を同席しているおばあさん、諸井さんに付き添った看護婦さんが止めるまで、児玉さんの話を止めることは出来なかった。看護婦さんが彼女の話をうまく引き取ってくれた。私はその隙にサっと浴室に逃げ込んだ。

それでも、小百合の名は小さい百合と書き、彼女は四十五才で十五才の娘と五十九才の旦那さんがいて、公務員であるご主人は来年定年、略奪婚で彼を前妻から奪った若い日の自分は芸能人だったこと。秘密だけれど娘は前妻の子で、その娘の彼氏と母親である児玉さんが両思いになれる日は近いこと. . . . . . . . . 。頭がパンクしそうな情報を貰った。

更衣室から児玉さんの声が聞こえなくなるのを、私は温いシャワーを浴びながらじっと待った。




仕事をなんとか定時で切り上げた祐輔が面会に来た。
ガラス戸の向こうに事務机と椅子の見える面談室ではなく、個室だったので部屋で二人だけになれた。

私のベッドに並んで腰掛ける。祐輔は途中のサービスエリアで買ったアイスクリームをお土産に持って来てくれた。
「体、怠い」私は溶けかけたハーゲンダッツを手に、祐輔にもたれ掛かった。
彼は木のヘラを口にくわえ左手を私の肩に回し支えてくれた。不安定な体勢が落ち着いたことを確認すると祐輔はまたアイスを口に運び始めた。アイスクリームのケースを持った片手で私を抱えるようにして、右手で小さな木ヘラを不器用に扱った。 

「祐輔、寂しいよ. . . . . . 」私は呟いた。
「瑠璃、あの. . . 」口に運ぼうとしたアイスをポトリと私の手の甲に落とした。
「あ、ああ、ごめん瑠璃」
祐輔はティッシュの箱をキョロキョロと眼で探すが手の届かない所にあった。私の手を掴むとペロっと溶けかけたアイスクリームを舐めてしまう。
「舐めるか. . . 普通?」私は呆れた。
「え?ごめ. . . 」

初めてのデート、サービスエリアで買った吾平餅のタレを私の腕時計に付けてしまった時も祐輔はペロリと舐めた。

紅葉刈りでごった返す人並みの中、まるで田舎のおばあちゃんみたいな人目を気にしない仕草。院卒で一流企業、エリートの典型だと思っていた祐輔の意外な素朴さに思わず笑ってしまった。車中ずっと笑い続ける私に、祐輔は『腕時計の真っ白なバンドに染みがついちゃうと思って』と頬を赤くした。
ホワイトゴールドにダイヤ、ホワイトシェルの文字盤と、エナメル加工したクロコのベルトのエレガンスなカルティエ。祐輔の車、ランクルほどの値がする時計を、タレで汚された上に舐められてしまった。
三十に近い最近では、付き合う相手もそれなりに洗練された男性ばかりだ。なのにこの人と来たら. . . . . . . . . 。

その時、私は祐輔に恋をした。

クスクスと思い出し、笑いが漏れる。
「へへへえ」と祐輔もつられるように笑った。
胸がキュウと痛み、笑いはいつしか嗚咽に変わりポロポロと祐輔の胸に涙を零した。

多くの男と付き合い、直ぐに相手を足手まといと邪魔に思った。いつも距離を置き、のめり込むことは無かった。否、出来なかった。生涯の伴侶なんて物語の中の出来事だと決めつけていた。
祐輔に出会い、男女の愛情の意味を教えてもらった。どこが好きとかではなく、存在そのものが愛おしい。隙間だらけの自分自身を埋めてくれる唯一の人間。

私は祐輔を置いて逝こうとした。
独りぼっちにしようとした。
彼の為に生きようとしなかった。

私は、裏切った。









シーン4-6 "ホテルカリフォニア"

タヤマ病院に入院して今日で二週間程が過ぎた。

私は相変わらず沸き上る不安と恐怖に苛まれ、時を過ごしていた。一人の部屋で緊張に震え星を見つめ、昼間は病室の天井を眺めて過ごした。


新しく処方された薬の副作用も又強く、吐き気と口の渇きを伴った。特に乾きは辛く夜間も枕元にペットの水が必要で、ただでさえ浅く短い眠りは度々中断された。夜中に二度もお手洗いに行くなんてまるでお年寄りのよう、そう思えうと惨めさにますます自分を嫌いになった。


毎日の生活は食事と入浴、ランドリーでの洗濯、祐輔への電話とメールとそれなりに生活のリズムらしきものが出来つつあった。活動としては最低限の量であっても、私にとっては必死だった。動くのが億劫で、いつの間にか背を丸め足を引きずり力を使わないように歩いていた。

子供の頃から体力だけは自信が有り、私はいつもドッチボールで男の子を負かしていた。大人になっても体を動かすことは大好きで、スノボやゴルフ、水泳だって6才も年下の祐輔と対等に付き合えた。
『瑠璃ちゃんと祐輔君は超体育会系カップルだぁ〜タフ過ぎだゾ!』と、からかう弟の金剛の声を思い出す。




今朝の朝食はご飯にみそ汁、小さな干物に得体の知れない煮物だ。お年寄りにも食べやすいように小さく柔らかく煮込であるのだろう。グチャグチャとした薄茶色の汁は見るのも嫌だった。

病院生活の中でも食事のテーブルに向かっている10分間が最も苦痛に感じた。手をつけない食事を箸かき回し席を離れるタイミングを待つ時間は、とても長い。二人のおばあちゃんが同席する私達の席には、いつも看護婦さんが介護に付いているのだ。でなければお椀の蓋も取らず返してしまっただろう。
食べなくとも咎められたりしないけれど、心配そうに声を掛けてくれる看護婦さんの手前食べるフリをした。

「諸井さん、次はみそ汁飲もうか?」ゆっくりゆっくりとスプーンを動かすおばあさんの隣で、看護婦さんは根気よく声を掛ける。
無表情の婦人は返事をすることもなく、それでもお粥からみそ汁の椀にゆっくりと手を出した。
若い頃にはさぞ美人だったろう、今でも白髪に似合う洒落た薄紫色のTシャツを着る姿には、どことなく品があった。

同じテーブルを囲んでいても、諸井さんの声を聞いたことは無かった。私の挨拶や看護婦さんからの問いかけに、頷いたり目線を合わせることさえもしない。もし普通の病院なら認知症と診察されていたかもしれない、と人ごとながら安堵と恐怖を覚えた。

「看護婦さん。これ開かんのだわ」もう一人のおばあさんは海苔の佃煮の瓶を指差した。
「利根川さん、辛い物は1日1回だよ。朝から食べたらもう食べれんけど良いの?」言いながらも看護婦さんは蓋を取り、お粥の上に中味をあけてやった。
「年だで、食べれる時に食べんとねぇ」こちらのおばあさんは、田舎の人らしい気さくな人物だった。

入院生活の長い人達は心得た物で、利根川さんの様にそれぞれ佃煮やふりかけやを持参していた。食事のお膳を返してからカップ麺や菓子パンを食べている人もいるようだった。特に健康面に問題が無ければ、それを看護婦さんも咎めたりはしない。


まあ、喫煙が容認されているくらいだからなぁ、とボンヤリ思った。









シーン4-7 "ホテルカリフォニア"

「椙山さ〜ん!!」

全自動のランドリーから乾いた洗濯物を取り出していると、また児玉さんに捕まった。

「乾燥機使ってるの?わあ、余裕、奥様なんだぁ!」
彼女は男みたいなガラガラ声を器用に裏返す。まるでおかまバーのオエネさんみたいだ。テンションの高さも。
「え、あの?」
「椙山さん、毎日でしょ?乾燥機。私なんてもったいからぁ、いつも外干し!」大きな体に合った大口で言い放った。
「. . . そうですか?」
嫌み、言われてるのかな?この人の眼、笑って無いみたいだし。なんか、怖い。
児玉さんは距離を詰め、頭一つ分上から私に迫って来た。
「ねね、椙山さんのお宅は商売か何かやってるの?奥様なんでしょ?」
「いえ、サラリーマンですけど、、」余計なことは言いたくなかった。
「あれ?満員かな?」洗濯袋を下げた人がヒョイと現れた。人の良さそうな白髪の年配男性だ。
手に持った洗濯洗剤を掲げて見せる。
「空いてます」私は急いで言った。「私、終わりましたので」
「曽根さぁんだぁ!」児玉さんは大声で新たな登場人物を歓迎した。
「ああ児玉さんは、洗濯終わったの?」
「うんん、これからぁ!」
私はこれ幸いとランドリー室から逃げ出した。「失礼します」

冷や汗が背を伝っていた。
全身から力が抜け、廊下から部屋までの距離をヨタヨタと歩いた。
その日の夕食は、食べるフリをすることさえ出来なかった。




私は服のままそっと体重計の上に乗った。

デジタル計の数字が表示される。
「はい、椙山さんは44.2キロね」看護婦さんはメモを取った。ショートボブに切りそろえた四十を過ぎ位の彼女は、優しいけれどハキハキとした口調で言った。

今日は月に一度の血圧と体重測定の日だった。
他の人は既に終ったらしくロビーでおのおのカップを手に寛いでいた。輪になってお菓子を食べてる姿も合った。今日も日差しは強く外はうだる程に暑い。いつも散歩に出る人達も、少し日が傾くまでは室内で涼んでいるだろう。

「椙山さん、身長164センチで44キロ?痩せてるの前からなの?」
「. . . はい」私は俯いた。
「スタイル良くて羨ましいけど、もうちょっと体重増えると良いね?お食事は食べられてますか?」
「は、い. . . 」
嘘を見抜かれた気がして、私は眼を合わせられなかった。


我家は代々長身骨太筋肉質の家系だ。
弟達も、父、叔父、祖父、みな肩幅の広い大男だった。唯一母似で華奢な金剛でさえ、身長こそ174センチしかないけれどその細身は意外なほど筋肉質だ。
私も例外ではない。学生の頃は体脂肪の少ない所謂アスリート体型と言われた。体重は55キロと大目だけれど体脂肪率は15〜6パーセントと男性並みだった。
三十を過ぎるとさすがに昔通りとはいかないけれどそれでも体脂肪は20パーセントを維持、スポーツジムでは理想体型と判定された。

昨年ジーンズの緩みで初めて筋肉が落ちてしまったことに気づいた。
でも、先月の尾大病院入院時には50キロ近くあったはず?いつの間にこんなに痩せていたのだろう?

鏡なんてロクに見ないし、丸顔なので頬は痩けない。まったく気づかなかった。



ああ、結婚指輪が緩いんだった。今朝も顔を洗っていて泡で滑り落としそうになった。
あらためて自分の手を見る。骨ばかりゴツい手の甲には肉が無く、筋が浮いていた。

この手、見覚えがある?
ああ、死ぬ前のママの手。


ふっくらとした白い手は、ベッドの上で骨と皮ばかりになった。








シーン4-8 "ホテルカリフォニア"

ラジオ体操の音が流れ始めた。
午後一時の体操もタヤマ病院では自由参加だった。

部屋に戻ろうとして看護婦さんの笑顔と目が合ってしまう。仕方なく扉の前で立ち止まった。嫌々と怠い体を動かす。

覇気のない中年とお年寄りのラジオ体操は、とても妙な雰囲気だった。何よりもラジオ体操くらいで息を切らせてしまう自分自身を一番滑稽に思った。
ホノルルでフルマラソンを走った体力はどこへ零れ落ちてしまったのだろう?

昼食メニューに加えられたオハギから今日がお彼岸だと知った。私がタヤマ病院に入院して一ヶ月になるということだ。ろくに食事もとらず体を動かさない日々が四週間。
私はどうなる?このまま動けなくなってしまうのだろうか?

溜め息を一つ落とし鈍い動作で振り返った。
食事を一緒にする諸井のおばあちゃんと目が合う。私は頭を下げた。彼女はこちらを見るともなく、いつのようにおぼつかない足取りで自分の個室に戻って行った。

「諸井さんはお返事出来ないのよぉ!」児玉さんだ。
彼女は広いロビーの反対側から大声で言った。周囲にいる男の人より大きな体で、大きく手を振った。
私は捕まりたくなかった。
頭をペコリと下げると、慌てて自分のテリトリーである個室に戻った。

児玉さんは浴室や食事中にいつも話しかけてくる。離れたテーブルから人の頭越しに大声を出す児玉さんに閉口しながらも曖昧に受け答えていた。
彼女は噂好きで院内のゴシップを垂れ流していた。医師や看護士は元より、入院患者のプロフィールから見舞客との関係まで把握していた。児玉さんが6年もタヤマ病院に居たとしても、ここまで情報を持っていることに気味の悪ささを感じた。
この手のタイプの人間は苦手だ。
以前の私ならキッパリとした態度で退けることが出来たのにと、情けなく思う。




週末、家人に迎えられ帰宅する人達をリビングの出窓から見送った。私は振り返り、壁の大時計を見上げる。
午後二時、祐輔が来ると約束した時間だ。三階から見下ろす中庭の向こうの駐車場に、黒のランクルの姿を目で探す。

疲れているだろうから見舞いに来なくても良いと、私は心にも無いことを告げた。けれど祐輔は自分が寂しいからと約束してくれた。

待つ時間ってなんて長いんだろう。


部屋の扉がノックされる音に思わず立ち上がった。
「瑠璃」祐輔はにっこりと笑いながら私を抱きしめた。
私は慌てた。ゆっくり動く引き戸は完全に閉まっていない。
「祐輔、扉、扉」
幸いロビーに人陰は見えなかった。
「あ、ごめん。えへへ、これお土産」
彼は照れながら寿司折を差し出した。
「カニ道楽?」
「うん。瑠璃の好きなカニの太巻き買って来た。僕もまだ昼食べてないから一緒に食べよ」
コンビニのガゼット袋からペットの麦茶とヨーグルトを取り出し椅子の上に並べる。
「瑠璃、病院のご飯食べれないでしょ?」
「あ、うん」
「好き嫌い無いクセに、味に煩いからなぁ。瑠璃はグルメなお姫様だからさ」
静かな休日の午後、私達はベッドに並んで座ってた。
「じゃ、祐輔は王子様ってこと?」私は言い返した。
「え?へっへへ、そうかな?」祐輔は頬張ったお寿司を飲み込みながら、モグモグと言った。何故か照れて嬉しそうな顔をしている。

祐輔、本当に可笑しなヤツ。

もりもりと寿司を食べながら、祐輔はこの一週間の出来事をポツリポツリと話してくれた。
私も付き合いで一つ口にする。

仕事は快調に回っているけれど、祐輔の部署は恐ろしい程忙しい。全自動の風呂の湯を入れる時に栓を忘れてしまった。来年結婚する同僚から結婚式に招待された。大学の後輩から今日のサッカーの助っ人を頼まれたけれど断ったと話は続いた。

「試合、行けば良かったのに」私は言った。週末くらい外で体を動かさないと、祐輔だって参ってしまうだろう。
「だって、瑠璃に会う時間が短くなるじゃん。楽しみにしてたのに、もったいない」
彼は聞いている方が恥ずかしくなるような言葉を臆面もなく口にした。
昔からそうだ。祐輔は自分を飾らなず、言葉もありのままを述べるだけ。真っ直ぐな心から出る言葉はいつもストレートだ。
他人と距離を置く付き合いしかしない私とは違う。

お腹が膨れると祐輔は手を繋いだままの姿勢で、ベッドにコロンと横になった。腰掛けたままの私を見上げながらニコニコとしていた。
私達はしばらく話すこともせず、気怠い夏の午後を二人きり過ごした。

「瑠璃は可愛いね」祐輔は唐突に言う。

私はダブダブのジーンズに洗いざらしのTシャツを着ていた。瞳に光は無く、陽に当たらない生白い肌に化粧もしていない姿は生気が無く酷く醜い。最悪なのはそれらが気にならないことだ。
伸び放題の髪を無造作に束ねた頭を振り、私は祐輔の言葉を否定した。


だけど瑠璃は可愛いよ。呟くと、祐輔は軽いイビキをかき始めた。









シーン4-9 "ホテルカリフォニア"

見慣れない若者がロビーの床にへたり込んでいた。どう見ても二十歳を過ぎたばかり位にしか見えない。

看護婦さんが優しい声を掛けた。

他の患者達は彼の存在を見守りつつ遠慮しているようだ。尾大病院でのゴタゴタとした人間関係を考えれば、ここの人達は皆それなりに配慮を持っているようだ。
あの児玉さんも、難しそうな人間は相手にしないらしいことも解った。あの若者にとっては幸いな事だ。

看護婦さんに促され面談室に向かう後ろ姿を見送っていると、ふいに声を掛けられた。
「椙山さん、こちら座りませんか?」穏やかな声でテーブルの向かいの席を指した。
「あ、はい」気は進まないけれど断れなかった。
「このお菓子、若い人は好きでしょ?食べない?」差し出されたのはクラッシュポッキーアーモンドだった。
「いえ、結構です。ありがとうございます」
「いえいえ、ウチの奥さんが持って来てくれたんだけどね。歯に詰まっちゃってね」おっとりと笑う。
「曽根さん、お茶の時間ですか?自分もコーヒーいれて来ます」四十前後に見える小太りの男性が声を掛けた。
「鵜崎さん、五条さんも誘っておいでよ?」

曽根さんは優しい外見からは想像出来ないけれど現職の警官だった。本人曰く残り三年でお役御免の年寄りだそうだ。
彼は優しい人リーダーのようで、先程の鵜崎さんと五条さんの他にも、女性が一人誘われるままに席に着いた。小柄な彼女は三十七〜八位の外見で、喫煙室に出入りしているのを始終見掛けた。

「でね、自分、再来週には退院できると思ってたら、あと一ヶ月は入院してろって言われたっすよ」鵜崎さんはお菓子を食べる手を休めて周囲に訴えた。「どうせ復帰しても三週間は自宅待機っす。しかも現場じゃなくて、事務方に配置です。自分、耐えられるか自信なくて」
「鵜崎さんは、タケヤマ工場だった?」細い体の五条さんが聞いた。
「はい、昨年からなんですタケヤマ工場は。十四年もシモサカ工場に居たんですけど」
「え?俺もシジマに行きましたよ新人の年に一年間」言いながら五条さんは自分を指差した。

タケヤマ?シモサカ?
それってタヤマ自動車の武山工場と下坂工場の話?この二人は祐輔の同僚かもしれない。
私は二人の話に改めて注意を向けた。

やはり鵜崎さんと五条さんはタヤマ自動車の社員だった。このタヤマ病院には祐輔の同僚が、過去も現在も何人か入院しているそうだ。同僚と言っても巨大企業、いくつもの部署や工場を持つので職場で顔見知りという確率は極めて低いらしい。
二人の話を聞き少しホッとした。

何とこのタヤマ病院の田山院長は、タヤマ自動車の産業医をしていたのだ。
職場で産業医である院長ににうつ病と診断され休職。タヤマ病院に通院。悪化すればタヤマ病院に入院するのだと言う。さらに退院後の自宅療養や短期勤務の期間もこの院長が決定するらしい。
ちょっと聞き捨てならない内容だった。
「自分、二度目なんで周囲が慎重なんすっよね」鵜崎さんはぷっくりとした指で坊主頭を掻いた。
「俺は三度ですよ」五条さんは少し俯きながら答えた。
「戻って来ない人の方が少ないらしいっすよ。ねえ、曽根さん」鵜崎さんは曽根さんに話を振った。
「うん。戻ってくる人多いね。私もそうだし」曽根さんはまた新しい菓子箱を破りながらウンウンと白髪頭を傾けていた。今度はチョコパイだ。

これだけ至れり尽くせでも、再入院を繰り返す人が多いなんて. . . . . . 何かがおかしいのか?



その夜、個室を幸いにこっそり携帯を使った。祐輔はまだ仕事中だったけれど、休憩の夜食時間にするからと喜んでくれた。

電話を終えるとどっと寂しさが押し寄せて来た。寂しくて寂しくて壁に向かい体を抱えて泣いた。
毎日あまりに不安だった。一人の部屋で緊張しながら震えて過ごすのに疲れてしまった。
『帰りたい』呟いていた。




その週末の外泊許可を貰った。

医者や看護婦に不安や不眠を訴えたことは一度も無い。なのに担当の磯崎医師から無理をしないように何度も念を押された。どこで私の様子を見ているのか不思議に思った。


土曜の昼、病院まで祐輔が迎えに来る。

家に帰るのは五週間振りだった。









シーン4-10 "ホテルカリフォニア"

ランクルの助手席に乗るのも久しぶりだ。
約束通に迎えに来た祐輔はご機嫌で私に『運転してみる?』なんて冗談を飛ばした。

九月も末日なのに眩しい太陽はクラクラと目眩を誘う。私はシートベルトを装着するとシートを少し倒した。
「すっげぇ良い天気。瑠璃このままドライブしながら帰らない?竹島あたりで車停めて、海に出て少し歩くってどう?」祐輔は期待を込めた眼差しを向ける。

無理、無理、無理、絶対無理。

目を閉じ動悸が治まるのを待つ。冷や汗が首筋を伝い落ちる。
「家に、帰りたい」ようやく声を絞り出した。
「あ、そっか。久しぶりだもんな、早く帰りたいよな!」OK、と祐輔は軽く受けおう。
車は真っ直ぐ自宅マンションのある名古屋市覚王山を目指した。

訳の分からない緊張はどんどん高まり、言いようの無い不安も強くなる。首から背中にかけて筋肉が強ばり、知らず知らずの内に拳を握っていた。話し掛ける祐輔に、私はまともな返答が出来なかった。

「瑠璃?眠いの?」信号待ちで、祐輔は私の顔を覗き込んだ。この交差点を曲がった先にインターの入り口がある。
「ん. . . 眩しい」曖昧に答える。
「そっか、寝てて良いよ。着いたら起こすから」祐輔はバンプ・オブ・チキンのCDを止め、FM曲にチャンネルを合わせた。

ラジオ局のDJは懐かしい名曲をあなたにプレゼントすると言った。
軽快なソウルのリズムが流れる。アース・ウィンド・アンド・ファイアーの大ヒット曲だ。

「九月にセプテンバーなんて、単純過ぎじゃねぇ?」と祐輔が笑う。

私はダシュボードに入れっ放しにして置いた眼鏡ケースを取り出した。普段使わない古いレイバンを掛ける。目元の皺が少しでも隠れるだろうか?
自宅までの距離は四十五分、我慢、我慢しろ。落ち着こうとすればする程、心臓は早鐘を打ち不安が腹の底からゾワゾワと沸き上って来る。
外泊用に渡された安定剤を飲もうか?
筋弛緩効果のあるこの薬を飲めば体の強ばりは解け、ぼんやりと眠たくなる。緊張や不安も少しは和らぐ。
だけど『外泊用』の薬を『外出』途中で飲んでしまって良いのだろうか?

外泊ではなく外出にしたら?無理はしないで少しづつね?と念を押す磯崎医師の姿がチラチラと思い出される。

どうしよう、祐輔はなんて思うだろう。

心配する?びっくりする?呆れるかな?

バッグを握りしめる私の手はじっとり汗ばんでいた。
どしよう?愛用のエヴリンドゥのアウトポケットに入っている小さな薬袋を取りだし、小さな錠剤を手のひらに落とす、ペットのエビアンを口につけ. . . . . . . . . 。

祐輔が身を乗り出しボリュームボタンを押す動きにハっとする。スピーカーから私の耳に飛び込んで来たのは哀愁を帯びた音楽だった。

「オンナダアクハィウェイ〜コゥル. . . 」甘いボーカルに祐輔の歌声が重なる。
「あ、うるさい?ホテルカリフォニア好きだし、歌って良い?」前方の道路を見たまま照れくさそうに言う。
「うん」私はぼんやりと答えた。
祐輔はニッコリ笑うと再び歌い始めた。彼にしては高音域で抑えめの声。
「ウェルカム ツゥ ザ・ホテルカリフォルニア〜」
切なく美しいメロディと、聞き慣れた祐輔の声が車中に溢れる。

祐輔の発音は意外なくらい奇麗だ。学部は工学科だけれど、子供の教育の賜物だろう。家の近くの教会に幼いよちよち歩きの頃から中学まで通わせていたと、義母から聞いた事がある。祐輔君ならTOEICのリスニングで満点取れるんじゃないか?と弟の琥珀も評価していた。
新婚旅行でオーストラリアのポートダグラスに訪れるまで、私は祐輔がバイリンガルだと知らなかった。
『海外だし、女性をエスコートしないとね?』照れながらも得意げな表情をする祐輔に、思わずキスしてあげたんだった。その夜ニューイヤーを祝う真夏の花火を眺め、一生の思い出を作れたねと二人で寄り添った。遥か昔の出来事みたいに感じる。あれからまだ四年。

歌声は続く。
カラオケで聴いてたのとは雰囲気が違う?どことは言えないけれど、胸に響く。

歌詞は告げる。
ようこそと。
囚われの身なんだと。
自分で選んだことだと。

眩しい空に鳶が舞う姿を見つけ、三河湾の方向を知る。深い緑の向こうにチラチラと漏れる眩しい光が海岸線なのだろう。

歌詞は告げる。
チェックアウトは好きに出来る。
けど離れる事は出来ないよ。
<ネバァ>永遠に。

いつの間にか海岸線を過ぎ、前方には巨大なビルがポツリポツリと姿を現す。緑の山も後方に去った。風景は、四角い建物と工事を待つ更地の殺伐としたものへと変化していった。

滲む涙を落とさないように、サングラスを拭く振りをして目元を押さえた。バッグのサイドポケットから薬を取り出すと、水と一緒に喉に流し込んだ。

「瑠璃?」高速運転中の祐輔は、目線だけでチラチラと私を見た。
「. . . うん」
「良い曲だよね?」
「うん」
「瑠璃、もしかして感動した?」
「うん」
「へへ、瑠璃大好き」
「ん?」
「そういう、感情が豊かって言うの?瑠璃の良いとこだよなぁ〜」
「. . . 」
「大好き。愛してるよ瑠璃」





  



シーン4-11 "ホテルカリフォニア"

週末の外泊は日曜夜八時までの予定だったが、時間を繰り上げ昼前にはタヤマ病院に戻った。いたたまれない不安感に負け、私は自宅にとどまる事が出来なかったのだ。

詰め所で不安時の頓服薬を貰う。「椙山さん、我慢しちゃった?夜中でも帰って来てくれて良かったのよ。大丈夫?」
看護婦さんの労る言にますます惨めさが募った。
「. . . すみません」
「あら、椙山さん。謝らなくて良いのよ」


個室のベッドで体を丸め横になり、薬が効いて来るのを待つ。祐輔が心配そうに私の背中を撫でた。
「ごめん、祐輔、ごめ、」涙が頬を伝わりシーツを濡らした。
「瑠璃。瑠璃は悪くないよ」優しく私の顔を覗き込む。「病気なんだ。看護婦さんも言ってたろ?謝らなくて良いって?」
私は祐輔と目を合わせられなくて自分の指先を見つめた。

自分から願い出た外泊。どうしても帰りたかった。
祐輔だって楽しみにしていただろうに、不安に震える私を宥めるばかりで疲れてしまっただろう。慣れない掃除機を掛けて、彼なりに部屋を整え私を迎えてくれたのに。
夕食用にわざわざ山本屋の味噌に込みを買い込んで置いてくれた。私達二人の好物。
不器用に作られたうどんは良い匂いをしていた. . . それなのに私は2~3本啜るのが精一杯だった。しきりに勧める祐輔に最後は涙声で謝った。
罪悪感で胸は苦しく、泣きを見せたことで更に自分を疎ましく思った。


1時間後、看護婦さんが私の様子を見に部屋を訪れた。
「椙山さん?少し落ち着かれましたか?」
返事が出来ず私は顔を伏せた。細かく震える手を祐輔が握っていてくれた。
「もう一錠飲んだほうが良さそうです?」看護婦さんは更に尋ねた。
なんと答えたら良いか解らず、口を開けない私に彼女は忍耐強く待ってくれた。

ようやく、小さな声でお願いしますと言う。

目も合わせず答えた私に気を悪くするでも無く、看護婦さんは快活に言った。「解りました。お持ちしますね」
「お願いします」祐輔が返事をした。









シーン4-12 "ホテルカリフォニア"

『椙山さん。磯崎先生が第二面談室でお待ちです』インターフォンから呼び出しが掛かった。
タヤマ病院では週に2度ほど担当医の面談があった。人によっては臨床心理士との面談も用意されていた。


「こんにちは、椙山さん」磯崎医師は静かに挨拶をした。
「こんにちは、お願いします」私はテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろした。
磯崎先生は若く、三十は超えていないだろう。小柄で動物に例えれば栗鼠のような愛らしい外見をしていた。医者としては押しがやや弱く、まるで人間に慣れていない野生の栗鼠のようだった。

「外泊、どうでしたか?」磯崎医師はカルテから視線を上げて私をそっと見た。

私は思い出し、目を瞑った。

沈黙が続く。辛抱強く私の言葉を待つ磯崎医師に根負けして口を開いた。
「. . . バスルーム. . . 汚かったんです. . . 」
「そうですか」
「家中、奇麗じゃなかったんです。. . . けど、主人なりに掃除してくれたと思って. . . . . . でも、あんまり汚くて、嫌で. . . 」
「そうですか」
「掃除してたら、喧嘩になって. . . 」

久しぶりの自宅の風呂に、私はローズオイルを垂らして入浴するつもりだった。ジャグジーにして二人で入ろうと、祐輔が後ろから声を掛けた。
「のぼせちゃうからダメ」断った。年寄りみたいに熱い湯が好きな祐輔に付き合っていられる程の体力なんてある訳ない。
「ちぇ、瑠璃のケチ」

洗面所の扉を開けると空気がムッと淀んでいた。続く浴室に足を踏み入れると嫌な匂いが鼻につく。浴槽に手を触れてみた。微かにヌルついていた。見回すと、姿見サイズの大きな鏡は白く汚れていた。

私は体中の力が抜けた。
しばらくへたり込んだ後、浴室洗剤とバスブラシを手に取る。ゴシゴシと浴槽を磨いた。直ぐに腕が怠くなり、掃除を続けるのに精一杯の気力を要した。
腹の底に何かがフツフツと湧く。床を磨く手にポツリポツリと涙が落ちた。

その後、いつまでも戻って来ない私を心配した祐輔が浴室を覗きに来て喧嘩になった。言い争いの最後は『キタイない』『キタナクない』の、単純な言葉の応酬だった。

「. . . 結局、私がやらないと. . . . . . 」
私の言葉に、磯崎医師はそっと答える。「そうですか?」
私は首を横に振った。
祐輔なりにやってくれても. . . 溜まった新聞、皺だらけのシーツ、空気を入れ替えていない部屋. . . . . . 。
「私が. . . 」
私がやらなきゃ駄目なんだ。


『冷蔵庫は空だった』

食器棚を探ると鰹節の袋を見つけた。炊飯器の音が鳴りご飯が炊きあがったのを知らせる。. . . . . . . . . しゃもじが無い?お茶碗も流しに入れっぱなしだ。私は必死にこびり付いた米粒を洗い落とそうとする。みんなとてもお腹をすかせていた。

激しく泣いているのは未だ小さい金剛?早く早くご飯を食べさせてやらないと。テーブルに突っ伏して寝てるのは黒曜?この子ったら、また幼稚園の黄色い帽子をかぶったままだ。その隣で金剛を抱っこしてアヤしてるのは琥珀だ。
外は真っ暗で、部屋の中はとても寒い。セントラルヒーティングのスイッチを入れたのに暖房もお湯も出ない。ママが言ってた『灯油切れね、業者を呼ばなくちゃ』かもしれない。だけど誰を呼べば良いのか知らない。

それに、どうしてだろ?どうして電話がつながらないんだろ?

ママが居ないとに頼む、出前のお寿司屋さんにもうどん屋さんにもピザ屋さんにも電話出来ない。お金も無い。キッチンキャビネットの三番目の引き出しに入れてある封筒は空だった。私達のお小遣いを合わせても小銭しか無く、近所のスーパーにお弁当を買いに行く事も出来ない。

水は痺れるくらい冷たく、指先が痛い。

お茶碗にご飯をよそい、鰹節と醤油をかける。寝ている黒曜を起こすと、琥珀の手からむずかる金剛を受け取った。泣きすぎて引きつるようにしゃくり上げる幼い末弟を抱きしめると、暖かい体は汗ばんでいた。小さな口から出る吐息は荒く白い。

強い後悔に襲われる。

ごめん、もっと早くご飯を作ってやれば。
先にお片付けしとけば。

お茶碗のご飯をスプーンの背で潰してフウフウと息で冷ました。私の膝で待っている金剛の口へ運ぶ。丸いほっぺにはまだ涙で濡れている。
お姉ちゃんが. . . . . . . . . 。









シーン4-13 "ホテルカリフォニア"

「椙山さん」
柔らかく呼ばれ視線を向けた。

「お茶、一本いかがですか?」曽根さんはちょっと困った顔で笑っていた。目の前の丸テーブルはペットボトルで一杯だ。
「娘がねぇ、二箱も持って来て。体に良いから皆さんでどうぞって言うんだよ」

同席しているのはタヤマ自動車の鵜崎さんと五条さん、私より少々年上の主婦江尻さん。いつものメンバーだった。
「ヘルシア。好きっすか?」鵜崎さんは笑いながら苦虫を潰すという器用な表情をして見せる。
「鵜崎君。苦いなら無理して飲まない方が良いんじゃない?」目尻に皺を寄せ、曽根さんは言った。「なんだかね、ピーマン嫌いの子供みたいだねぇ」
「え?自分、そんな事無いっすよ。コレ体脂肪減らすんですよね?それに以外と美味しいですよ」ゴクゴクと飲むと、大きな体に少し余分に付いた肉がぷるぷる震えた。まるで好きな先生に褒めてもらいたい児童のみたいな姿が微笑ましい。

窓際のテーブルで別の患者の相手をしていた看護婦さんが堪えきれずクスクスと漏らす。穏やかな笑いは、午後の陽を浴びた明るいロビーに広がっていった。
私はありがたく黒烏龍茶を一つ貰うと、その場を離れた。


中庭に降りる。たった三階の距離なのに相変わらずエレベーターを使った。
呼吸は荒く鼓動も早い。息切れ、とは違う症状に、軽い立ちくらみを起こす。
私は転ばないようそっと壁に背をもたれさせ、なるべく自然に見えるようにズルズルとコンクリーの上に腰を下ろした。

私の降りて来た二病棟の両隣に、一病棟と外来病棟は建っている。中庭をコの字に挟む形だ。何も置かれていない庭の向こうは、自然の木々が揺れゆるゆると小高い丘に続いていた。
木陰で地面にペタリと腰を下ろし何人かで談笑している姿も見えた。

私は目眩をやり過ごすと、病院正面の駐車場スペースに移動した。
昼までの喧噪が嘘のようにガランとした場所で、車止めのコンクリにそっと座る。残暑の厳しい午後、患者は滅多にここを訪れない。遠くにキラキラと眩いのは三河湾だ。さわさわとした潮風も体を冷やには足りない。遮る物の無い日差しはあまりにも容赦なかった。

. . . . . . . . . そう、さっきから頭がクラクラするのは日差しのせいに違いない。

何かに憑かれたように敷地をグルグル回っているいつもの老人の姿も、今日は見つからなかった。

メールの受信をした。
祐輔。祐輔。祐輔。金剛。祐輔。金剛。祐輔. . . . . . 『社食の定食が値上がるって噂 Boo~』『知多ラーメンの極ミソを食べた』『漫喫で同中の奴に会った』『CoCo壱のスープカレーってどうよ?俺的にはOK』
何コレ?食べ物の話ばっかり、似た者バカって言うか. . . . . . あ、琥珀のメールもある。
『今週ちょい立ち寄るから、要るものあればメールしろよ』
. . . . . . 高速走って一時間の距離がちょいですって?見舞い来るなって言っておいたのに. . . 尾大病院を無理矢理退院しちゃったこと気にしてるのかな?きっとそうだ。それで私の様子と病棟の雰囲気を見に来るつもりなんだ。琥珀の場合、観察?監査?するって言葉がピッタリだと思うけど。

. . . . . . . . .忙しいくせに、 私の事なんて放っておけばよいのに。視界がぼんやりと滲み携帯のディスプレイに焦点が合わなくなる。

「あ、黒曜. . . ?」携帯を持つ手に力が入る。黒曜からメールが来るなんて本当に珍しい。同じ市内に住んでいても年に数度しか顔を合わせず、時々出す私からのメールにもまず返信を寄越さない。

『高倉不動産、俺の委任にしといた。ハンコ押しもいらん。領収書全部出せ。月遅れの分も。保険の請求しとく』
「何コレ. . . 」思わず吹き出す。
想像を働かせなくとも黒曜の言いたい事は解った。
『高倉不動産の面倒は高倉建設の社長である自分が兼任で見てやる。雇われ社長の留璃子ネエは”ハンコ押し”さえしなくとも良い。会社の経費にできるものをちゃんと請求しろ。遅れても構わないから。入院治療費の保険請求は自分が変わりにやって置く』つまり、一切の手間を引き受けた上で、金銭的な心配もいらないと言ってくれているのだ。
「ばか黒曜. . . 私のことより自分の心配すれば良いのに」
黒曜は、高倉家四姉弟の三番目で私の三才下の弟だ。誰も継がない家業を一人で背負ってくれている。名前だけの役員で報酬だけ受け取っている私達と違い、支配的なパパの下で今も苦労していることだろう。頑張り屋で不器用な性格の黒曜。でかい図体で唇を固くひき結び、いつもじっと我慢する姿。


パパは息子達にそれぞれ武道を習う事を強要した。琥珀は空手。黒曜は剣道。末っ子の金剛は柔道の道場に送り込んだ。
あれは私が高校生で、黒曜が中学生になった年のことだった。黒曜は見事、昇段試験で二段を取得した。剣道の腕前よりも、そのひたむきな努力に報いてやろうとカラオケでお祝いをする約束をしていた。
時間をかなり過ぎて帰宅した黒曜は、俯いて固く口を結んでいた。歯を食いしばっていたのだ。額にはびっしり汗をかいていた。異変に気づいた私と琥珀は何があったのかと問いつめた。黒曜はしぶしぶ先輩に突きを入れられたと告白した。防具の無い肩の付け根のあたりだ。酷い痣になっていた。明日になればもっと腫れるだろう。すでに右腕は上げられない状態だった。

医者に連れて行くと言う琥珀と、学校に怒鳴り込みに行くと息巻く私を、当の被害者である黒曜は必死で止めた。
『だって、俺なんかが先に昇段したから. . . . . . 』まだ一年なのに、と呟く。
『バカ!黒曜は小学生から町の道場にも通ってるんだから部活だけの奴より先に昇段して当たり前でしょ!ヒガミでこんな怪我させられて!』私は理性が吹っ飛ぶくらい怒っていた。私の、私の弟を、許さない!
『黒曜、誰がやったんだよ。俺にだけは言えよな?禁止手の突き使う奴に遠慮なんかいらねぇしな?剣道三倍段だぁ?防具なしで正拳受けさせてやるよ』両の拳を打ち付けながら、琥珀は冷ややかに言った。かなり怒っているのだ。
『琥珀兄ィ、優等生が何言ってるんだよ。受験生なんだから止めろよぉ。留璃子ネエも、俺がチクリだって思われるだろ. . . やめろよ二人とも。やめてくれよ』黒曜は困惑したように俯いた。やめてくれ、やめてくれ. . . と繰り返し呟いた後、固く結んだ唇から言葉が漏れることは無かった。

その後、姉弟四人で行ったカラオケで主役の黒曜は一曲も歌わなかった。歌えなかったのだ。来週に変更しようと説得する私と琥珀に、黒曜は大丈夫だと言い続けた。
カラオケが大好きな兄の、いつもと違う様子を不振に思った金剛に"お祝いに歌ってやるパーティだ"と納得させ、私と琥珀は馬鹿みたいに騒いだ. . . 私が不器用に貼った湿布を当てたまま、黒曜じっと我慢をしていた。たまにおチビおチビと金剛をからかいながら。酷く痛むだろうに、それでも弟の前ではそぶりも見せないのだ。

. . . . . . 黒曜、年末にでも第3子が産まれるってのに、未だに別居生活を送っているのだろうか?
私が、もっとしっかりして. . . . . .

「すぅぎやまさぁ〜ん!!」
大声で名前を呼ばれ、私は思わず携帯を落としてしまった。
カツン、コン、コン。黒いアスファルトに、真珠色の携帯と、ストラップにしているゴールドのチェーンが転がる。アクセントに付けているティファニーのチャームが、地面で跳ねた勢いで液晶を叩いた。
その音は静かな駐車場に酷く響き、私の頭に木霊を残した。

「椙山さぁん!ここ暑くない?ベンチ、これば良いのにぃ!」大きな人影が覆い被さるように私を見下ろしいた。
「児玉さん?」私はのろのろと答えた。
「売店から、椙山さんの姿見えたんだけど、ちっとも戻って来ないからどうしたかな?とか思ってぇ!」
「あ. . . そう」
「ねね、メル友とかしてるの?」児玉さんは言うより早く私の携帯を拾い上げると、無遠慮にメール画面を眺めた。
「あの. . . 」私は彼女に向かって手を差し出し、返してくれと無言の催促をする。
児玉さんは私の様子を気にも留めず、次はリンゴや像のモチーフを一個づつ指先で弾いて遊び始めた。
「椙山さんの旦那さん、背高くて可愛いよねぇ?若いしぃ、優しそうだしぃ、ねね、もしかしたらお坊ちゃん?お坊ちゃんでしょ?」
「え?別に. . . 」
「で、そっちは誰?」児玉さんはにやりと笑うと、やっと私の手に携帯を戻してくれた。
「は?」
「だからぁ、メール、誰から?」
「. . . 弟ですけど」
「きゃははははぁは!」突然笑い出すと私の背中をバシバシ叩いた。「おっとうと?なになに?椙山さん若い子好きなんだぁ!やっぱ男は若い方が良いよねぇ!女同士の秘密!弟ね、お・と・う・と!」
. . . . . . . . . この人、何言ってるんだろ?
「だけど私なんてぇ、もっと若いよ、彼ぇ!15才!!30も若いのぉ、まるで子供みたいで可愛いいのぉ!」
子供って、自分の娘の同級生でしょ?"子供みたい"じゃなくてまんま子供じゃん。
「最初、告られた時はちょっとって引いたけど、彼ぇ、あんまし真剣だからぁ、私もツイね」グローブのような逞しい指を胸の前で組うっとりと語る。白髪まじりのゴワゴワとした髪は寝癖の付いたまま。明るい所で見ると荒れた肌の口元の無駄毛がますますヒゲに見えた。児玉さんの性別を知っていても、女装しそこねたオカマさんにしか見えない。そう考えて否と心の中で首を振った。私の知っているオカマバーやクラブのお姐さん達はとても自分を磨いていた。外見だけでなく内面も。

聞きたくなくても教えてくれる内容によれば、外泊許可で帰宅した児玉さんは娘さんを迎えに来た少年を偶然見掛けたらしい。その時、少年は児玉さんにだけ聞こえる声でこっそりと愛を告白したと言うのだ。病院に戻ってからも少年から日に何度か愛を囁かれると語る彼女の姿は恐ろしいくらい真剣だ。

なまじ誰も来ない場所を選んだだけに、助けが期待出来ない。彼女を振り切る力も無い。

袋のネズミ. . . 言葉が頭に浮かぶ。









シーン4-14 "ホテルカリフォニア"

『トイレ』

児玉さんの一言で、ようやく私は解放された。


彼女が再び戻るのを恐れ急いで病棟へと戻った。空調の効いたロビーに足を踏み入れた途端ホっとして気が抜ける。自分の病室まで戻る気力も尽き、扉近くの椅子に腰を下ろした。

. . . . . . . . . 疲れた。ああ、疲れた。疲れた。もの凄く疲れた。


ぼんやりと腰掛けていると詰め所から声を掛けられた。
「椙山さん」
「はい?」振り返った。
. . . あ、携帯の電源を落としていなかった。私はポケット内をモソモソと手探りする。
祐輔に借りたメンズサイズのバーカーはブカブカで、ジップアップの両サイドに付いたポケットは携帯どころかペットボトルをスッポリ納められる。今も曽根さんに貰った500のペットが入っている。

「体重、量って下さい」看護婦さんはデジタルのヘルスメーターを手に持っていた。
「え?」
私は戸惑う。体重測定は毎月始めに一度だけと説明を受けていたから。
「磯崎先生の指示なの」
「あ. . . はい?」
「椙山さん、ご飯食べられないようだけど?体重減ってるんじゃない?」
「. . . 」

足元に置かれたコンパクトな体重計を見つめる。
ガリガリにやせ細った少女達の姿。点滴をいつもぶら下げて尾大病院の廊下をカラカラと歩く. . . 私の脳裏に、その風景がパっと鮮やかに蘇った。まるで自分の出演するドラマを見ているかのような感覚。

「えっと椙山さんの体重は. . . 44.2キロ?あら細いのねぇ!」クリップボードのメモを見ると、看護婦さんは目を丸くする。
ビク. . . 私の体は小さく震えた。体重計を見つめ、逃げられないと解っていても躊躇う。我慢強く待つ看護婦さんの笑顔に促され、私はのろのろと立ち上がった。
「サンダルは脱いで下さいね」
「. . . はい」従った。
表示された数字が確定されるのを待つほんの数秒が恐ろしく長く感じる。
「はい、44.8キロ。減ってない、良かったわね!椙山さんの身長だと. . . 50キロくらいあってもスリムなくらいよね?」看護婦さんはクリップボードに数字を記入すると、私の二の腕を軽く掴んだ。「あら、ほんと細い腕!こういうの着てるから気がつかなかったわね」
私は曖昧に頷いた。
左右のポケットに手を入れたまま体重計を降りる。そのままの姿勢で、そっとそっと部屋に戻った。怖くて誰とも目を合わせられない。


個室の扉が背後で閉まると、私は思わず大きな溜め息を付いた。殺していた呼吸を一気に吐き出す。全身の力が抜けた体を投げ出すようにベッドに腰掛けた。左手に掴んだお茶のペットと、右手に掴んだ携帯をポケットから取り出した。指先は微かに震えていた。

. . . . . . 人を騙す様な行為をしてしまった。

両手を握りしめ、ハっと左手にはめたメンズサイズのGショックに気がつく。
眠れぬ夜はしきりと時間が気に掛かる。蛍光塗料仕上げの腕時計なら、いちいちスタンドを付けなくとも済むので、祐輔のアウトドア用の腕時計を借りたのだ。

ペットボトル、携帯、時計. . . . . . 、小銭入れ. . . ジーンズのポケットに入れておいたのを思い出した。
堪らない気持ちで冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルを押し込む。首に掛けたチェーンを外し引き出しの鍵を開けた。腕時計、携帯、小銭入れと共に片付け、再び鍵を掛ける。
ベッドに転がると背中の筋肉が強ばりに気づいた。明日は頭痛が酷くなるだろう。今だってとても気分が悪い。ああ、吐きそうだ。

そうだ。鍵を下げているこの自前のチェーンもプラチナ製で、見た目よりも重さがあったんだ。
首に掛けたチェーンと鍵を一緒に握り込んだ手は微かな震えを続けていた。



夕食はいつにもまして食欲を感じなかった。ぐちゃぐちゃと箸でご飯を突っつき、焼け過ぎた魚の身をほぐし、食べてる風を装った。
「お先に失礼します」同じテーブルで食事をしているおばあさん達に頭を下げると、彼女達の介護をしている看護婦さんの目を避けるようにして部屋に戻った。

私はベッドに横になり乱れた息が整うのを待った。少し落ち着きを取り戻した私は冷蔵庫から祐輔の持って来たチョコレートの箱を取り出した。サティの生チョコはカカオ分が多く、とても口溶けが良い。
小さなチョコを二個口に放り込むと、柔らかくなる前に飲み込んだ。カカオパウダーで軽く咽せそうになり、水をゴクリゴクリと飲む。もう一度チョコを飲み込む作業をすると、こみ上げて来るムカつきに負けないよう必死で胃を宥める

消化を助けようと横になると、目尻から頬にかけて涙が伝った。









シーン4-15 "ホテルカリフォニア"

シーツ交換時、病棟の窓は大きく開け放たれる。
空調の切られたロビーの窓も全開で、土と緑の匂いの風が吹き抜けた。さわさわと心地良く肌をなぶった。

広いけれど閉鎖された空間での空気の入れ替えは、大雨でも振っていない限り恒例だと聞いた。冷房は逃げでしまうけれど室内の淀みが取り払われ気持ちがよい。幸い今日は秋らしい湿度の低い爽やかな日で、気温もそれほど高くなかった。

ほうっと息をする。
. . . . . . 他人と自分を隔てる個室の扉を、しばらく開けておこう。

このフロアーの窓は自由に開閉できた。タヤマ病院内ではこの2病棟3階のみだと誰かに教えられた。窓際に立つと、眼下に車寄せのアスファルトを見下ろせた。タヤマ病院は小高い丘の斜面に建てられていた。南向きの窓は下りに面しており三階の部屋から地面まではかなりの距離があった。

じっと下を見ていた自分に気づく。

なんとなく後ろめたい気持ちがして視線を上げると晴れ渡った空を見た。眩しい陽光が柔らく頬に降り注ぐ。夏とは違う澄んだ深さを持つ空は季節の移ろいを知らせる。秋が訪れたことを私に告げた。

ああ、空があんなに高くて青い。. . . 蒼天?蒼穹?と、表現するのだろうか?今の私には全てが眩い。
. . . 胸がざわめく。過ごした時間を思い知る。
「帰りたい」ふと呟く。 どこへ帰りたいと言うのだろう?私はどこへ辿り着いて行くのだろう?


どれだけぼんやりと窓際に立っていたのだろう。
. . . あの音は?
聞き覚えのある音にハっと意識を戻される。

耳を澄ませば大排気量のスポーツカー独特のエンジン音が聞こえた。私は軽く身を乗り出し病院の前を走る田舎の一本道を見つめた。

見えた。

迫力のある重低音と共に、黄色いポルシェが目に飛び込んだ。オープンにしたスタイルで葡萄畑の脇を走り抜ける姿はまさに一枚の絵。さすが琥珀ご自慢の愛車911カレラだ。よく見れば運転席に座るのは金剛だろう。晒した金髪が光を浴びてキラキラしていた。兄にねだってハンドルを握らせて貰っているのだろう。

私は慌てて来客用駐車場まで弟達を迎えに行った。



スラリとした長身の琥珀と、兄達ほど背は高くないけれどスタイルの良い金剛はいつだって人目を惹いた。ここに居ない三番目の黒曜も190センチの長身を鍛えに鍛え、30才を超えた今でも格闘技系のアスリートのようだ。びしっとダークスーツを着込みパパのキャデラックを運転する姿は、琥珀とは違った意味で目を惹くものがある。

詰め所の訪問者リストにサインする琥珀は、ジーンズに麻シルクのファインニットを着込んだだけのシンプルでカジュアルなスタイルだった。それでも優し気な微笑みに、受け付けた若い看護婦さんは頬を赤らめている。
琥珀はペンと止めると、手首にはめたロレックスにチラリと視線を落とす. . . 時刻を記入するのであろう。イエローゴールドに鮮やかなマリンブルーのヨットマスターは派手で気障だが、唯一のアクセントとして嫌み無く身に付けていた。琥珀は何でも上品に着こなすコツを知っている。よく見れば足元もデッキシューズだ。マリーナによって来たのかもしれない。

兄より数センチ小さく、それでも平均身長くらいはある金剛は、細身の白いコットンパンツに、黒蝶貝のボタンがアクセントの白の麻シャツに、黒のローファーを履いていた。普段のTシャツと穴開きジーンズから比べればとてもエレガンスなスタイルをしていた。麻のシャツは少し大きめで琥珀からの借り物だろう。袖口は軽く折られ手首にはやはりロレックスをしているのが見えた。成人式に姉弟でプレゼントしたデイトナだ。

金剛は家を飛び出すたびに貴金属を売り飛ばしていた。それでもこのデイトナだけはずっと身に付けていてくれた。今のパチンコ屋の住み込み仕事には似合わないだろうけど. . . 今日の金剛は長目の金髪を低い位置でポニーテールにまとめることさえしている。. . . . . . 本人には言えないけれど、ホストの休日みたいだ。
良い品が身に付いていない。同じ兄弟なのに、年齢の差なのだろうか?

詰め所前で看護婦さんに挨拶する私達にロビー中の視線が集まった。
金剛は皆さんでどうぞと年配の看護婦さん、病棟のリーダーである看護士長さんに、グラマシーニューヨークの箱を渡す。お気遣い無くと辞去する看護婦さんに、ニコニコと邪気の無い笑顔を見せ、チーズケーキお嫌いですかぁ?俺、気が利かないから、また姉に叱られちゃうなぁ?と調子良く話し掛けながらサッサと菓子箱を押し付けてしまう。

詰め所の奥から看護婦さんが一人、又一人と姿を現す. . . . . . ワザワザ見に出て来たのかな?

『目立つ』
私達四姉弟が連れ立っていると周囲から良く言われた言葉だ。それぞれに体格が良いからだろうと、こんな風になる前は気にも留め無かった。
けれども今の私には視線が痛く感じた。ほんの少しだけれど。



「留璃子ちゃんこれ」金剛は馬鹿みたいにデカイぬいぐるみをベッドに座る私の膝に乗せると、隣にストンと腰を下ろした。
キティちゃんの頭は"子猫"とは思えないくらい大きく、完全に私の視界をふさいでしまった。
「. . . ありがと」
「へへ、留璃子ちゃんがキティちゃん抱いてると、そっくしで見分けが付かねーの」金剛は笑いを堪えながら言った。そしてわざとらしくぬいぐるみに向かって話しかける。「でも瑠璃子ちゃん、元気そうで良かった。相変わらずまん丸い顔で. . . ってぇ、て. . . 」
私は金剛の口を引っ張ってやった。
「て、てぇ、留璃子ちゃん痛ぇって!」金剛は大げさに痛がる。
「どのお口が言うのかな、コン?どのお口、どのお口?」子供の頃、弟達が汚い言葉を使うと私はこうしてやった。
「こ、こんごふ. . . 」
「ですは?」
「で、しゅ. . . 」
余裕のある個室スペースの窓際に置いた椅子に座った琥珀は、私達の様子をニヤニヤと眺めていた。リラックスした姿勢で長い足を組み、一人悠然と缶コーヒを飲んでいる。
琥珀は口を開くとしれっと言った。
「コンだから言ったろ?留璃子ネエは"松嶋奈々子を可愛くしたみたいな顔"なんだって」微妙なイントネーションが思いっきり揶揄を含んでいた。
「. . . 」
「って、祐輔君が言ってたぞ。留璃子ネエ」
「あ!それ俺も聞いた」金剛。
. . . 祐輔ったら自分で思い込むのは勝手だけど、恥ずかしいから絶対人には言うなってあれだけ言い聞かせといたのに。
「松嶋菜々子なんて似てねーよ」金剛は腕組するとマジマジと私の顔を見つめた。「留璃子ちゃんはさぁ、どっちかっつーとペコちゃんフェイス?あ、後さパワーパフガール. . . . . . 」
私は一呼吸すると、隣に座る金剛の顔をチラっと見る。
「. . . コン、祐輔はねコンのコトね. . . 」
「え?俺?」
「深キョンに似てるって」
「. . . . . . 」金剛は意味を飲み込めず一瞬絶句した。
「. . . え?えっえ?. . . 女子、女子なの?俺?」
琥珀は堪らず吹き出した。
「あ、琥珀。シーツ交換したばかりなんだから、コーヒー吹かないでよね」
「はは、悪りぃ」
「琥珀兄ィ、何受けてんだよ!留璃子ちゃん、祐輔君って目悪くね?絶対悪ぃよ!」金剛は顔を真っ赤にした。
「ウケ狙いで、こんな大きなぬいぐるみ買って来るなんて。二人ともお金の使い方間違ってる」私は話題を変えた。
「二人って俺もか?コンが選んだんだぜ?」自分は関係ないとばかりに、琥珀は手をヒラヒラさせる。
「あ、琥珀兄ィ裏切るのか?どうせなら店で一番大きなの買えって、カルチェの財布から"き・ん・い・ろ"のカード出したの琥珀兄ィだぞ!」
「支払いは長男としての義務?思いやり?みたいなもんよ」
「違う!留璃子ちゃん、琥珀兄ィが. . . 」
金剛は兄の琥珀には絶対口では勝てない。解っていていつも琥珀はこの末弟をからかう。何事にもクールな態度を崩さない、ややもするとシニカルな琥珀なりの愛情表現なのだろう。

二人とも痩せこけた姉の様子に、気づいたそぶりは決して見せなかった。光を失った瞳、冴えない顔色、覇気のない話声、構わなくなった身なり. . . 見えているのに見ないでいてくれている。

「なあ、留璃子ネエ。俺、田山院長と医師会のコンペで一緒に. . . 」
琥珀の言葉を私は途中で遮った。「挨拶なんてしないでいいから」
「え?なんで留璃子ちゃん?待遇良くなるんじゃね?」金剛は不思議そうな顔をした。
「充分良くしてもらってるから大丈夫」
「そうなのか?」琥珀は探るように私の目を見た。
「留璃子ちゃん、俺なんて盲腸の時に琥珀兄ィの弟だって知れたらスッゴク良くしてもらったぞ?しかも、あん時はまだ琥珀兄ィ、学生だったろ?」
「研修医だ」
「へ?そなの?とにかく、院長の知り合いとかならさ余計スゴクね?」
「. . . ここは看護婦さんも医者も親切だから. . . これ以上なんて無いよ」
これは事実だ。タヤマ病院では職員全員が笑顔を絶やさず、私達を"患者様"として扱う。「解った。留璃子ネエがそう言うなら」琥珀は私の言葉に頷いた。
「ありがとう、琥珀」
. . . . . . 注目されたくない、自分に視線を集めたくない。それが本音だ。


一時間足らずの時間、私達はたわいもない会話をした。そろそろ帰るかと言う琥珀に従い立ち上がった金剛を、私は駐車場まで見送った。

「やっぱ見舞いはポルシェよねぇ?しかも黄色?」私は憎まれ口を叩いた。
. . . . . . . . . 寂しく、などない。

「留璃子ちゃん、黄色って言うな。スピードイエローって呼べよ!」ったくデザイナーのクセにと、嬉々として運転席に乗り込んだ金剛が指摘する。
「じゃ、こんどは親父のファイアーバードで来るかコン?」琥珀は水を向けた。
「あ、そうだなぁ〜!見舞いと三者面談はファイアーアードに限るって昔から言うしー」
「. . . 言わない」
「あり?俺のガッコにファイアーバード乗り付けた人いなかったっけ?琥珀兄ィ?」
「赤のコンバーチブルか?俺じゃねぇぞ」
「あ、あの時は、他に車がなかったから仕方なかったでしょ?」私は大人げなく言い返した。

金剛が中学に上がる前頃から、私が三者面談に保護者として出席するようになった。二十歳を過ぎれば誰も文句は言えないだろうと、九才年下の保護者を努めたのだった。
ちなみに黒曜の高校の進路相談に出掛けたのも私だ。もちろん黒曜は凄く嫌がっていたけど、両親が行かないのだから仕方ない。
当時私はパパのお下がりのBMWに乗っていた。出掛けようとして助手席側のドアが当て逃げされていたことに気づいた。黒の車体に擦られた傷はみっともなくて、ともてじゃなけど運転する気になれなかった。キャデラックはパパ、ベンツはママが乗って行ってしまい、仕方なく残されたファイアーバードを選んだのだ。70代式の古い車は恐ろしく運転しにくかった。金剛の中学に無事到着した時は心からホっとした。
. . . . . . . . . その時、古い車が珍しいのかわらわらと集まった男の子達に取り囲まれてしまったのだ。まだ大学生だった私は面談の為にわざわざダークスーツを着ていったというのに、顔を合わせた金剛の第一声は『留璃子ちゃん!こんな派手な登場ってどうよ?!』だった。

「. . . コンったら、十何年も前のことじゃない」
「おれっちのトラウマだ?」金剛はわざとらし胸元に手をやる。
「ん?まさか、パパったらあのボロまだ乗ってるの?」私はふと気づく。
「ひっでぇな、ボロだって。あれ絶版モデルだぞぉ!名車を大切に乗るってのは男のロマンなんだぞ!」留璃子ちゃんには解んねーのか?と、金剛はブツブツ文句を言った。
「はいはい。とにかくもう来なくても良いからね」
「あ、ひで、留璃子ちゃんったらそれが可愛い弟の金剛君に向かって言うことかよ!」
「まあまあ、コン。留璃子ネエは照れ屋さんなんだよ。愛を素直に口に出来ない、ま、ツンデレだな」
「留璃子ちゃんツンデレ属性!!」
. . . . . . . . . . . . 何その属性って?
「わかったから. . . じゃ、地味にレクサスとかにして」私は譲歩した。
琥珀と金剛は何も言わずマジマジと私の顔を見る。何故か妙な表情をしていた。
「. . . . . . 何?」
「留璃子ネエはなぁ」
「留璃子ちゃんってさ. . . 」
「何よ?」
「なんやかんや言ってもお姫様だからな」普通が世間とはズレてるんだよ、と琥珀。
「お嬢様育ち?ってヤツ?」金剛はわざとらしく首をすくめてみせた。「金銭感覚が普通とはちげーぞ」

. . . . . . . . . 、何この子達?車なんて自分で買わないし、ディーラーを覗いた事も無いもの、知らなくてあたりまえじゃない?私だって祐輔のランクルの値段くらい知ってるし、ローンの残額だって. . . 聞いたから知ってるんだけど。
. . . . . . . . . もしかして、世間の主婦は卵やキャベツ同様、車の価格も知っているのかな?
「. . . 二人とも、早く帰れば?」

結局、駐車場でのやりとりは小一時間続いた。二人の口からは見舞いではなく、私をからかう言葉ばかり出た。金剛などは病院の駐車場でポルシェのスピンターンを見せてやるなどと最後まで馬鹿を言い続けた。

私は病院の敷地ギリギリまで降り、二人の乗る車を見送った。
エンジン音まで聞こえなくなっても私はしばらく動かず立っていた。気づくと腕が重く、自分がずっと手を降り続けていた事に気づく。

. . . . . . . . . 腕が怠い。運動していない体はこれくらいの動きで悲鳴を上げるんだ。









シーン4-16 "ホテルカリフォニア"

あれからも度々、自称『娘の彼氏と恋愛中の主婦』児玉さんに掴まった。

現に今も、中庭に降りようとして彼女にバッタリ出くわしてしまった。児玉さんはその大きな体で私の行く手を通せんぼするように立ちはだかる。饒舌な猫撫で声を出す人物に、勇気を振り絞りお手洗いに行きたいと告げた。彼女の不満げな表情はこの際見なかったことしにする. . . . . . この技を身に付けたのは幸いだった。
私は個室の中から彼女が諦めるタイミングを見計らった。お手洗いの扉をそっと押し、ロビーに児玉さんの姿が見えないことを確認した。良かった、居ない。

. . . . . . 我ながら馬鹿みたいだと思う。

ロビーで和やかに歓談している曽根さんと目が合った。彼は笑いながら小さく首を振った。どうやら私の行動の意図などお見通しのようだ。

「曽根さん。先日はお茶をありがとうございました。娘さんにもよろしくお伝え下さい」私は彼の隣の席に腰を下ろした。
テーブルを囲むのはいつものメンバー、タヤマ自動車の鵜崎さん、曽根さんと、先日入院した青年だった。
「いやいや、なんだか皆さんに無理に押し付けちゃったみたいで」曽根さんは白髪頭をカシカシとかいた。
「無理だなんて、自分ありがたく頂きましたよ」と鵜崎さんはぷっくりした頬を緩ませた。彼はどこか体育会系の礼儀ただしさを持っている。そう言えばタヤマ自動車では運動部経験者が優先採用されると、祐輔の父親から聞いた記憶があった。
「良い娘さんですよね。さすが曽根さんの娘さんです」五条さんも相づちを打った。
「いやあ、お恥ずかしい」

目の端に、広くもない病棟をウロウロしている児玉さんの姿が見えた。短いボサボサの髪に大柄な体を包む着古したジャージの上下、そしてやけに赤い口紅。
彼女の躁的な会話はどうやら相手を選んでいるらしく、年配の患者や一部の看護婦さんとはろくに話もしない。そして数人の会話の輪には決して入って来なかった。
つまり曽根さん達といるこの場はセーフティゾーンというわけだ。. . . . . . 何故、自分が児玉さんの話し相手に選ばれたのか、あまり考えたくはなかった。

「盛田君のご実家は三河なの?」常に気配りを忘れない曽根さんは背を丸め座っている若者に声を掛けた。
「あ、はい. . . いえ、知多の方です」
彼は力なく、それでも曽根さんの顔を見て答えた。
中高年の多いこの病棟で若者は彼一人だった。社会人だと聞いていなければ、十代にしかみえない。小柄で痩せた体。日に焼けていない肌は真っ白で、生きる気力をどこかに落としてしまったみたいな表情。顔に掛かった長めの髪はしばらく切っていないのだろう。
尾大病院に入院していた子供達を思い出す。

「盛田君はシモサカすっか?」鵜崎さんは聞きながらマフィンをパクっと口にした。
「. . . あ、はい」ぼんやりとしていた青年は話を振られてパっと顔を上げた。
「ずっとシモサカなの?」
「あ、はい」
「俺たちも昔いたんっすよ。ね、五条さん」
「うん。あそこの購買、遠くて不便だったよね」五条さんは嘆いてみせた。
彼は気配りのできる人間でその言葉はいつも暖かい。今もあまり会話をしない盛田君に気を使って共通の話題を提供しているのだろう。
「社食でメシ喰って、購買行くと昼なんて丸々潰れちゃうもんな。配置、なんとかして欲しいよな」
盛田君は口元でモゴモゴ返事をした。

この青年、盛田君もタヤマ自動車の社員らしい。つまり祐輔の同僚なんだ。世界的大企業に勤務するとはこんなに重圧を受けるってことなのか。
. . . . . . . . . のほほんとした祐輔の顔を思い出し、胸がつきんと痛んだ。

「なんか、俺、突然昇進しちゃって. . . 」盛田君は口を開くと大きく項垂れる。
「盛田君、優秀なんだね」その若さでねぇと、鵜崎さんは優しく言った。
「いえ、俺なんて、そんなことないです」首をふるふると振った。彼は口を開こうとして少し躊躇った。「俺なんて. . . メチャクチャ、言われてます. . . 」
「「え?」」鵜崎さんと五条さんは目をぱちくりさせた。
「. . . この一年、あそこもここも駄目だ、駄目だ、駄目だって. . . ずっと言われてます」
「そりゃ酷い!」鵜崎さん。
「いや. . . 俺、たしかに駄目なんで. . . 」
「盛田君は実力を認められて昇進したんでしょ?それを駄目だなんて言う人が駄目なだよ」曽根さんは優しい口調を崩さず、それでもキッパリ言った。
「そうだよ。そんなの、パワハラだよ」五条さんも相づちを打った。「組合には?」
「でも、俺まだ新人みたいなものだし. . . 」
「そんなの関係ないよ」鵜崎さんは我が事のように顔を真っ赤にした。
「. . . 俺みたいなの. . . 」
ますます項垂れる青年に、鵜崎さんも五条さんも困惑する。
「. . . 盛田君」
「. . . 俺、実家に戻るんで. . . もう良いんです」盛田君は自嘲気味に言った。

タヤマ自動車をあっさり辞めてしまうと言うの?たしかにハードワークと聞いているけれど、福利厚生はしっかりしている。傷病休暇もかなり長く取得出来るはずだ。辞めてしまうなんて. . . 。
「ご実家に?」曽根さんは白髪頭を傾け、優しく尋ねた。
「酒屋なんです. . . 古いとこです、常滑なんですけど. . . 」盛田君は悲し気な顔で笑った。
「. . . 盛田君」五条さんが何とも言えない声を出した。
「はい?」
「盛田君って、まさかアノ盛田さんですか?」
「へ?」盛田君は"アノ"と言われ戸惑う。
「盛田酒造の?」
「へ?」
「盛田昭夫氏の?」
「え!盛田昭夫さんってソニーの?!」私は思わず口を挟んでしまった。
「. . . 」全員の視線が盛田君に集まる。
彼はわたわたと顔の前で手を振り慌てて行った。
「ち、違います。違います」彼はひたすら焦った表情をしている。「家は酒屋です。造り酒屋じゃないです」
そうなんだ、と一同が溜め息する。
「ああ御曹司かと思った」五条さんはヘヘヘと憎めない笑いを漏らした。

五条さんの早とちりで大慌てした盛田君は、力が抜けてしまったようだ。机にふにゃりとつっぷして、それでも鵜崎さんの勧めるマフィンを一つ手に取った。
何となく場が和み、昨夜のテレビドラマの感想や、好きなフリカケの名前など、たわいもない話が続いた。



『椙山さん。磯崎先生が第二面談室でお待ちです』インターフォンから呼び出しが掛かった。

「お食事は進まないようですね」磯崎医師は穏やかに言った。質問ではない、確認だ。昨日の測定でまた体重が減っていたのだ。
「はい. . . 」正直に返答する。
. . . . . . ポケットにペットボトルや携帯を入れたまで量ったインチキは、たった一週間の誤摩化しだった。あれだけドキドキと緊張し、自己嫌悪にまで陥ったのに. . . . . . 自分が馬鹿みたいだ。
「椙山さん、睡眠の方はどうですか?」
「あまり. . . 」
「先日、ご家族が面会にいらして下さったそうですね?」磯崎医師はカルテをチラと見た。
「はい。弟達です」
「仲が良いんですね」優しく微笑んだ。大人しい栗鼠のような顔には疲労が滲んでいた。「最近はロビーに出ていらっしゃるようですね?環境には慣れましたか?」
「はい. . . 」言われてみれば、ロビーで曽根さん達と会話する機会が増えていた。確かに以前は用のない限り部屋から出る事は無かった。自覚もないまま看護婦さん達にチェックされていたことに、なんだか恥ずかしさを覚えた。
「椙山さん。この週末は外出などされますか?」磯崎医師はさりげなく切り出した。
「. . . . . . 」
「無理に出掛ける必要はありませんよ。外出や外泊も予定通りに過ごす必要なんてないですしね」
「. . . あ、はい」
同じ失敗を繰り返すのは嫌だ。と、頭の中で考えているのをズバリ指摘された気がした。
. . . . . . どうしよう?グルグルと考えが巡るばかりで思考はまとまらない。

結局、院内で過ごすも外出するも自由に選べるように外泊申請の許可を出しておくと言う磯崎医師の言葉に従った。


『その時の気分次第で気楽にね』と磯崎医師は繰り返し言った。









シーン4-17 "ホテルカリフォニア"

祐輔にメールしようと中庭に降りた。
. . . . . . そろそろ外泊許可について知らせておかないと。

ダブダブになってしまったカーゴパンツのサイドポケットから携帯を取り出すが、この間の失態を思い出し躊躇した。みっともなく取り乱した自分の姿を思い出す. . . . . . . . . まとまらない思考と喉の乾きにイラ付きを覚えた。目眩を起こさないようゆっくり立ち上がると、あの自販機でジュースを買おうと売店とは反対側、外来用駐車場の端に向かった。
. . . 水より少しでもカロリーのあるモノを選ぶべきだけど、甘い缶珈琲は苦手だしなぁ. . . 果物系のジュースにしようかな?

ふと自販機の陰にうずくまる人陰に気づく。
「あ. . . 盛田君?」私は驚いた。あと一歩の距離に近づくまで全く気がつかなかった。
彼はアスファルトの地面に顔を向けたままペコリと頭を下げた。

私は天然果汁のオレンジジとリンゴのジュースを買うと、青白い顔をした青年の前に差し出した。
「盛田君、どっちが好き?」
「え?」
彼はぼんやりと私を見上げてから、ジュースに目をやった。随分ぼんやりと考えたあと、リンゴを指差した。
「はい」
盛田君は渡されたペットボトルをまじまじと見つめるとようやく口を開いた。
「. . . すいません」

涼しい風が吹く中庭の隅で、私達はゴクリゴクリとジュースを飲んだ。抗うつ剤で口が渇くのは患者達共通の悩みだった。

「椙山さん. . . 」盛田君は伸びた前髪の間からチラりとこちらを伺った。
「はい」
「すごいですね、ポルシェ」
「ああ、あれ」
「911カレラの、ターボですか?」
「え?どうかな ?」実は私は車に全然興味が無い。かろうじて身内の乗っている車の名前を知っているだけだった。
「弟さん、すごいですよね」盛田君は溜め息を吐いた。
「. . . え?」何が?
「弟さんですよね?雰囲気似てて」
「似てるかな?」確かに以前は良く言われた。でも覇気のないしょぼい今の自分の姿を顧みれば、あの弟達に似てるなんてこれっぽっちも思えなかった。
「俺よりずっと若いのにポルシェなんて、スゴイですよ」スゴイ過ぎます、と盛田君は繰り返す。
「ああ、運転してたのは一番下の弟。車はその兄のなの」私は説明した。「それにね、あの子ああ見えても26になるのよ」
「あ、俺、タメです」少し驚いた顔をした。「じゃ、あのポルシェ、お兄さんの車なんですかぁ」
「あ、あれも弟なの」
何を想ったのか盛田君は少し躊躇うと、再び私を横目でチラっと見る。「. . . あの、椙山さん、あのポルシェ運転したことあります?」
「うん。昔、新車の頃にね」
「いいですねぇ. . . 」珍しく微笑みらしきものを浮かべた。
私は少なからず驚いた。
「どうでしたか?ボルシェ?」
「う〜ん. . . ホイルスピンさせたり、ノッキングしてエンストしたり。私には荷が重かったな」

ぐっと沈み込むシートは乗り心地が良いのか悪いのか私には微妙なところだけれど、6速マニュアルのポルシェの運転が難しいことは確かだ。パワーがあり過ぎ、ハンドルの反応は良すぎる。アップダウンとカーブの続く山道はおろか、住宅地である実家の近辺を走らせるのも結構大変だった。車体は大きくてもベンツやBMBのセダンタイプの方が扱いやすい。

私の情けない体験談にも盛田君はがっかりすることはなかった。
「やっぱ、ポルシェですよね」彼はうんうんと頷いた。「旦那さんはランクル乗ってましたよね?」
「うん、そう。盛田君は車好きなのね?」
「俺、車が好きで、タヤマに就職出来た時は有頂天だったですよ. . . . . . でコレですから」と背後の病棟を苦々し気に振り返った。
「あ、俺、馬鹿な事. . . . . . じゃあ、運転してた方の弟さんは何に乗ってるんですか?」
「ベスパ」
「. . . え?. . . スクーターの?」ペットボトルを持つ盛田君の手が止まる。
トレナーの袖口から覗いた手首には傷が見えた。歪んだ線の両脇にポツリと並んだ赤い点々。盛り上がって赤みが強く、まだ最近のものだと解った。
「うん。そのベスパ」私はパっと目をそらした。ジュースの最後の一口を飲み干す。
「俺も実はスクーターなんです」ほっとしたように盛田君は言った。「椙山さんは車あるんですか?」どうやら彼に取って車はかなり重大なアイテムらしい。
「うん。私は、ア. . . 」ハっと気づき口ごもる。
. . . . . . . . . アウディって"普通"な車なんだろうか?少なくてもボディカラーは真っ赤で派手派手で地味とは言い難い。盛田君の反応からランクルはOKだったらしい。レクサスはNGなら、アウディはどうなんだろ?琥珀と金剛の言う"普通"に入るのか入らないのかな?

「あ、あの. . . あ、かい. . . 」私は口走る。
「はい?」
「. . . 赤い車」
「あかい、車ですか?」
「なんか、赤かい車で. . . 」
盛田君はプっと吹き出した。「椙山さんって、面白い人なんですね」
「へ、そう?」
「なんか良いとこの奥様で、俺らなんて眼中に無いんだろうって思ってました」
「ええ?」
「ずっと個室だし。静かで、上品にしてるし」
「じょ. . . ?」
「ほら、あの大きい人。うるさくて皆相手にしないのに、話聞いてるじゃないですか」盛田君は嫌そうに眉をしかめた。自分も入院翌日ロビーで児玉さんに捕まったと教えてくれた。「キモコワイですよあの人」
「あ、はは. . . 」. . . 逃げ切れないだけなのに。

いつの間にか西の木立に日差しが遮られていた。少しずつ太陽の傾く時刻が早くなって来ている。つい最近までうだる様な熱を運んだ三河湾からの潮風も、気づけば肌寒く感じた。
病院敷地から緩やかに、木々は丘から山へと続いていた。広葉樹をほとんどが占めている。紅葉の季節になれば見事な眺めだろう. . . . . . . . . 。

空のペットボトルを握り直し、そろそろ病棟に戻ろうかと盛田君を振り返る。
「三人兄弟なんですか?」不意に問われた。彼は手元のペットボトルを見つめていた。
「うちはね四人。弟が三人居るの」子供の頃は煩かったよ、と私は付け加えた。
「. . . 良いですね. . . 」盛田君はしみじみ言った。「俺、一人っ子だから」
「そうなんだ」
「母親、死んでから. . . 俺と、親父と、二人っきりで. . . すげぇ静かです. . . 」
私は思わず盛田君の顔をじっと見てしまった。寂しそうな横顔は目蓋をバチバチとしばたかせていた。
「. . . お母さん、まだお若い、よね?」目をそらすと、私は聞いた。
. . . 彼が聞いて欲しがっているみたいな気がしたのだ。
「はい、44才です」
「. . . すごく若いね」
「はい. . . すごく若いです」
「. . . 辛いね」
「はい. . . 辛いです」彼は膝の上に両手を組むと、頭を乗せた。「. . . さみしい」
「うん、寂しいよね」
「. . . . . . . . . さ、みしい. . . 」くぐもった声は震えていた。「俺. . . いい年して. . . . . . みっともない. . . 」
「年なんて、関係ないよ. . . 」
「. . . . . . 」


駐輪用のコンクリの車止めに一つ置いて座っている盛田君の肩が小さく震えた。気づいていも、私は何も言えず、何も出来なかった。夕日に照らされ鏡みたいに光る遠くの海を眺め、ただ黙って座っていた。








シーン4-18 "ホテルカリフォニア"

窓から降る雨を眺める。

口に含んだ紅茶はお世辞にも美味しいとは言えない。カップは暖まっておらず、なにより茶葉の量が少な過ぎた。ポットとカップを暖め、キャンディスプーンに山盛りの茶葉を使い、たっぷり三分以上蒸らしてから飲んでこそフォートナム&メイソン社の紅茶の味わいを楽しめる。だけど、隣でニコニコしている祐輔にそんなことは言えなかった。

「美味しいね瑠璃」
「うん美味しい」私はまた一口、モーニングブレンドに口を付けた。「ありがとう祐輔」

昨夜から自宅に戻った私は、なんとか眠れぬ夜をやり過ごすとベッドを抜け出し、出窓から外を眺めていた。すぐに後を追ってリビングに入って来た祐輔は、背の高いスツールを二脚持って来ると並んで座ろうと言った。そして私の体が冷えていると、紅茶をいれてくれたのだ。

「せっかく、瑠璃の外泊なのに、雨なんだもんなぁ」祐輔は空を恨めしそうに眺めた。
「雨も良いよ」
「ん?」
「雨が街を洗う. . . みたいな気がしない?」私は見下ろした道路を指差した。雨の日曜なのに幹線道路だけあって交通量は多かった。「排ガスとか、ホコリとか. . . みんな下水に流れちゃって、街全体が洗われるって. . . 願望だけどね」
「. . . 」祐輔はまじまじと私の顔を見ていた。
「祐輔?」. . . . . . 私、変なこと言ったかな?なにしろ相手は理数系の人間だ。
「瑠璃って、本当に可愛いね」
「え?」
「すごいロマンチックだ」
「. . . そんなんじゃ、ないよ」
「うんん、瑠璃可愛い!」
「. . . 祐輔」
「瑠璃、大好き」彼は本当に優しい目をして私を見つめた。
「祐輔、お腹空かない?」話題を換えた。. . . 祐輔のいつもの言葉が今日はなんだか照れくさい。
「うん、空いた!空いた!ご飯食べよう!」
祐輔は席を立つと、キッチンにに置いてあったコンビニのガゼット袋を持って戻って来た。
ドサドサと次から次へと菓子パンを取り出し、出窓に並べ始める。
「どれにする瑠璃?メロンパンに、銀チョコロール、栗あんぱん. . . あと薄皮クリームパンもあるよ」
「うーん、薄皮クリーム」

私達はダイニングテーブルでもソファーでなく、出窓で朝食をとった。四年も住んでいて初めてのことだった。
相変わらず口は不味く食欲は無かった。けれど小さなクリームパンを祐輔と齧る朝食は楽しかった。. . . . . . 薄い紅茶と菓子パンの食事も良いな。


ソファーの上に寝転ぶ私の目の前の床に、祐輔は直接座っていた。必死でゲームをクリアしようと、かなり力が入っているようだ。
「あ、ああ!!」祐輔が操る主人公のHPゲージがゼロになりゲームオーバーとなった。「ああ、ラスボスつえー!!」チクショウと柄でもない悪態をつく。
「なんで伊達政宗と信長が闘うの?」私は疑問を差し挟んだ。
「へへ、それはホラ、ゲームだし」ヘヘヘと笑う。「瑠璃もやってみる?」
「うんん、止めておく」ゲームなんてできそうもない。
「瑠璃は格ゲー駄目だったね。パズル系かぁ、ぷよか、あ、テトリスでもやる?これ、懐かし〜ぃ!」
「ゲームできそうもない」小説を読むのだって集中力が続かず読む気になれない。「疲れちゃうし」
「そっか。じゃ、じゃ休憩しよっか」

祐輔はソファーにストンと腰を下ろすと、横から腕ごとすっぽりと私を抱きしめた。
「瑠璃が居る」
「. . . 」
私は少し伸びた祐輔の髪を撫でた。
「瑠璃が居るだけで幸せ」私の頬にキスを落とす。
私の肩に顔を埋め囁き続ける。祐輔の手に力がこもり少し窮屈なくらいだけれど、私はじっとしていた。
「瑠璃、大好き。」
「. . . . . . 」
「愛してる。瑠璃、瑠璃、瑠璃」
「. . . 泣いて、ばかりなのに. . .? 」私なんて居ても疲れるだけだろうに. . . 。
「泣いても良いの!」祐輔は即座に言った。更に私を抱く手に力を込める。「瑠璃が、居てくれれば」
「. . . 何も、出来ない. . . 」
「何もしなくても良いから」
「. . . . . . 」
「居てくれるだけで良いから」
「. . . だけど私なんて. . . 」そうだ、私は家事は一つできない。

不安だと泣き、怖いと怖いと繰り返しては祐輔を困らせてる。出会った頃の私と、今の私は別人だ。祐輔が私のどこを好きになってくれたのか解らないけれど、少なくとも現在の私では無いはずだ。
祐輔はまだ二十九才。やり直せる年だ. . . やり直した方がいい. . . . . . 。

「瑠璃だけだから!」祐輔は、私の考えを見透かすしたみたいに強い調子で言った。
普段のほほんとしてるくせに、時々妙に私の考えを先読みすることがある。
「瑠璃だから!瑠璃以外は駄目だから!」
「. . . なんで. . . ?」私にそんな価値は無いのに. . . 。
「愛してるからに決まってるだろ」
「ゆ、うすけ. . . 」
「大好き。瑠璃だけいれば良い。瑠璃が居てくれれるでけで良い。愛してる」
祐輔の飾らない言葉は胸を揺さぶる。
「い、いっしょう. . . この、ままだったら. . . ?」言葉が滑らかに出て来ない。
「うん、このままでも大好き」
「ずっと. . . 私の、面倒見てかなきゃ. . . 」
「うん、面倒見る」
「毎日、菓子パンと、コンビニ弁当. . . だよ」
「うん、瑠璃となら美味しいよ」
「. . . . . . 私は、いや. . . 」
「瑠璃はお姫様だなぁ。じゃ、ココ壱と吉牛も買って来るよ」ニコニコと笑う。
「ば、か. . . 祐輔」
「うん馬鹿でもいい。だけど瑠璃が好きだから」祐輔は腕に力を込めると、私を自分の膝に抱えるように乗せた。「瑠璃、大好き。愛してる」逸らすことなく私の瞳をじっと見つめてくる。

. . . . . . ああ、そうだ。初めてデートに誘われたあの日から彼の眼差しは少しも変わっていない。祐輔じゃない、変わったのは私だ。正体の解らない不安に飲み込まれ、一人足掻き続けている。
「瑠璃、愛しているからね」
その真っ直ぐな心が胸に切ない。私にそんな価値なんてないのに. . . . . . 。

私は祐輔の背中に手を伸ばしそっと抱き返した。
「祐輔. . . 好き」そして、ごめんなさい。



週末の外泊は予定通りに家で過ごせた。病院に戻る道中、寂しさに泣きベソをかく私を祐輔は一生懸命慰めてくれた。なんだか子供返りしたような、自分が自分でないみたいな妙な気分だ。

お帰りなさいと迎えてくれた看護婦さんは、私の顔を見て眉を顰めた。何ともないと報告すると、解ったと頷いた。

個室に戻ると、面会時間は残り一時間を切っていた。私はかなりの疲れを覚えていたけれど、別れ難い気持ちで祐輔にもたれ掛かった。彼は私を甘やかす言葉をたっぷり聞かせてくれた。
私は祐輔の頬に手をやると、チュっと唇にキスを落とした。
瞬間、ノックの音とほぼ同時に、看護婦さんが部屋の扉を開けた。
「椙山さん、お薬は. . . . . . 」彼女は固まってしまった。
心配して様子を見に来てくれたのだろう。直接この個室を訪れるなんて珍しい。よほど私の具合が悪そうに見えたのだろうか?
「あ、の. . . く、くす、り. . . 」若い彼女はしどろもどろになっている。
「今日は、要りません。ありがとうございます」私は頭を下げた。
「あ、はい!解りました!」看護婦さんは弾かれた様に頭を下げ踵を返した。
ゆっくりと閉まって行く扉の向こうに見えた後ろ姿はバタバタと詰め所に向かって走って行った。ロビーで歓談していた人々の視線が彼女に集まるのがチラっと見えた。

「看護婦さん、どうしたんだろ?」祐輔はのんびり言った。その手は私の髪を絡めるように撫で、もう片方の手は肩を抱いていた。
「さあ. . . 忙しいのかも?」
「ふ〜ん、大変だね」日曜の夜に若い女の子がね、と祐輔は首を振った。

クスクス笑う私につられ、意味も解らず祐輔も笑った。









シーン4-19 "ホテルカリフォニア"

『気分変調』はうつ病の症状の一つ。
磯崎医師にそう告げられた。

眠れぬ夜を過ごした朝は気持ちが重く、怠い体はさらに気分を悪化させる。それでも最近はシャワーから上がった後など少し穏やな時を感じる自分に気づいたりしてた。曽根さん達のテーブルに加わり会話の輪の中で過ごす. . . お菓子好きな鵜崎さんに勧められ、一つ頂いたりもした。
なのに同じ日の夜には、いつの間に気持ちは重く沈み、言いようの無い不安に捕われてしまっている自分自身に気づく。個室の部屋からこっそり祐輔の声を聞き、優しい言葉を囁かれても一向に気分は上昇しない。

. . . . . . . . . あまりの進歩の無さに、ますます自分を嫌う気持ちが膨らむ。



「波の様に良い時期と悪い時期を繰り返します」面談室で向き合った磯崎医師は我慢強く話をしてくれた。「少しずつ、良い時が増えて行けば良いんですよ」
「. . . はい」私は内心のイラつきを押さえ返事をした。
本当に?本当に、良くなるのだろうか?もう入院してからかれこれ二ヶ月が過ぎようとしている。盛夏から秋へと季節も移ろいでいるというのに. . . 私だけが変わらない。
「良くなっても、悪くなる時期は当然来ます。その波がね、少しずつ緩やかになって行くんです。そしてだんだん苦しい時間が少なくなって行きますよ」
「. . . はい」
「人はね、心を癒すのに、苦しんだのと同じだけ時間が掛かるとも言います」磯崎先生は口調を変える。私より年下の彼女は、まるで子供に諭すみたいな柔らかい表情をしていた。
「え?. . . 」
「もちろん、人それぞれですから椙山さんも同じだとは言えません。だけどね、それくらい自分を休ませて上げても良いんじゃないですか?」
「わ、私は、そんなに苦労なんてしてませんから. . . 」
磯崎医師は何も言わず私を見つめた。
「. . . 恵まれてるのに、こんな病気になって. . . 甘えてるんです。もっと辛い事情を持つ人は、大勢います。私なんて、どこかおか. . . し、い. . . . . . 」
「おかしくありませんよ」労る口調。
「. . . でも、私. . . 」
「椙山さんは病気なんです。病気に掛かるって事は誰にもありますよね?」
私は何も言えず、彼女から目をそらし自分の手を見つめた。. . . . . . . . . だけど私なんて. . . . . . . . . 。
「肺炎も、盲腸も、うつ病も、病気ですよ。この病気なら普通で、この病気だったら、おかしい。そんな理屈はありませんよ」磯崎医師は常に無く、キッパリと宣言した。
「病気は治療する。病気なら休む。病気を直すために自分を労る。椙山さんは病気なんです、治療するのは当たり前なんですよ」

内向的な彼女は精神科医には向いていないのではないかと、私は常から思っていた。患者達も『あの人は大人し過ぎる』と噂していた。しかし、今こうやって私と対峙する磯崎医師の瞳には、患者に真っ直ぐ向き合う強い意志と、自分の職業へのプライドが見える。

私は頭を下げた。「. . . はい」
狭い面談室に鼻をすする音が酷く響いた。磯崎先生はティッシュの箱をさり気なく私へ押しやると、しばらくそのままで居てくれた。





祐輔の両親、私の義父母の面会は突然だった。

先日持ち込んだiBookで祐輔の持たせてくれたDVDを眺めていた。詰め所から面会の知らせがあり、誰だろうと不思議に思い部屋を出た私の目に飛び込んで来たのは義父母の姿だった。

「留璃子さん、メロンカットして来たの食べてね」義母はタッパを差し出した。「冷蔵庫があるって聞いてたから。冷やしておくと良いわよ」
「あ、ありがとうございます」
「あとね、パウンドケーキ焼いて来たの。10日くらい持つのよ」
「どうも、すみません」
祐輔の母親と隣同士でベッドに腰掛ける。義父は向かい合って置かれた椅子にキチンと座っていた。
「留璃子さん、元気そうね?」でも少し痩せたかしら?と義母はおっとりと笑った。
彼女はセミロングの髪に緩やかにウェーブを掛け、上品なアイボリーのニットスーツを着て中ヒールのパンプスを履いていた。背筋の伸びたシャンとした姿勢はさすが名門華道の家元の娘で、自身も師範なだけあった。

「あの. . . 遠いのに、ありがとうございます」私は戸惑っていた。
祐輔はいつ両親に私が精神病院に入院していると告げたのだろう?そして義父母達は私の病歴. . . 治療歴をどこまで知っているのだろう?

「良い場所だなぁ」義父は窓の外を眺めながらいった。
「本当ですね。静かで、眺めまで良くて」義母もゆっくりと頷いた。

見舞いに訪れて10分程で義父母は帰って行った。留璃子さんを疲れさす訳にはいかないわ、と祐輔に良く似た笑顔で義母は笑った。駐車場まで見送ると申し出た私を押しとどめると、祐輔の父親は看護婦さんに深々と頭を下げてから病棟の扉を開けた。


両親に私の入院先を告げたのはもちろん祐輔だ。絶対内緒にしておくと約束したのに、いつ話してしまったのだろう?とボンヤリ考える。
いままでの入院も全て秘密にしていたのになぁ、こんな遠くまで足を運ばせてしまうなんて申し訳ないなと思った。. . . . . . 約束を破った祐輔に対する怒りは無かった。少し前ならメチャクチャな怒りを覚えただろうに。

冷蔵庫からタッパを取り出す。ベッドに腰掛け、私は蓋を開いた。
ケースの中には一口大に切ったメロンと果物フォークが入っていた。フォークの柄にはアルミホイルが巻かれている。
. . . . . . 何故だか、胸が詰まった。

結婚前に強い反対をした義父母に対し、私は内心わだかまりを持っていた。表面はにこやかに、しかし一瞬だって本気で祐輔の両親を身内、家族として考えたことは無かった。

「メロンをこんなに小ちゃくカットするなんて. . . 味が落ちちゃうのに. . . 」高級なお菓子でも、現金の見舞い袋でもない。すぐに食べられるサイズのメロン。
私は一つ口にしてみた。「. . . お、いしい. . . 」甘みと香りが口に広がる。

祐輔の両親は、やっぱりその息子の親なんだ。









シーン4-20 "ホテルカリフォニア"

 今や恒例となった昼食後の祐輔との通話を終え、私はホウっと息を吐いた。

両親の来院は祐輔にも意外だったらしく、電話の向こうで必死に謝っていた。
あまりにも音沙汰がない息子に業を煮やした両親から呼び出され、私が入院中であることを白状してしまったらしい。平日はともかく週末も忙しいと三ヶ月も姿を見せず、携帯にも、家電にも出ないとはいったい何事だと詰め寄られたのだ。どうせ義母に嫌みでも言われ、単純な祐輔は言い返しついでに暴露してしまったのだろう。
私が怒っておらず、お義母さんとお義父によろしく伝えてねと言うと、祐輔は絶句した後に弾んだ声でもちろんと請け負った。疲れなかったかと?労る声に、気を使ってもらったから平気だったと答えるとまた嬉しそうに笑った。

フフっと笑いが溢れる。
腕にはめた借り物のGショックを見るとそろそろ午後のラジオ体操に時間だった。最近では真面目に参加していた。鈍った体だけれども、それでも周囲の人達よりはマシな動きだろう。. . . 中学駅伝区間記録を出した昔を思い出せば、何とも情けないレベルだけれど。

. . . . . . とうとう、色付いた木々が葉を落としはじめた。
今朝は冷え込んだ。それを反映して空はますます澄んで青い。街で送る日々では気づかない変化だ。
瑠璃子の瑠璃は英名ラピスラズリ。マドンナブルーと呼ばれる聖母の衣の鮮やかな青。ウルトラマリン、海の青でもある。見上げた視線の、木々と空が触れ合う辺りがちょうど瑠璃色に見えた。

『留璃子の瑠璃は七宝って言ってね、とってもありがたい石の名前なのよ』ママが聞かせてくれた。
あれは小学生の国語の宿題だったかな?自分の名前の意味をお家で聞いて来なさいと先生に言われ、夕食の席で質問をした。ママはとても嬉しそうに教えてくれた。『ママのおじいちゃんがね、それはそれは喜んでくれたの』その色は強く深い紫色の青だと言った。『紫なの?青なの?』私が尋ねるとママは笑った。『強い青で、高貴な紫なの』ふ〜ん、なんかスゴイと私は答えた。. . . それが和色であると知ったのはずっと大きくなってからだった。
それからママは、あなた達の名前は全部パパが付けたのよとも言った。『琥珀も七宝の石でね、色は透き通った飴色』ええ、飴ぇ!!と私達は大騒ぎした。
『黒曜は固くて強い石。パワーストーンって言ってね、見えない力が込められてるお守りみたいな石なんだって』へぇ〜、黒曜スゴイじゃん!!また三姉弟で騒いだ。
『じゃ、赤ちゃんは?私達と同じ、石の名前にするの?』私は女の子だったら珊瑚が良いとママにねだった。日に日に大きくなるママのお腹に手を当て、早く産まれておいでと囁いた。
『馬鹿だな、珊瑚は石じゃないぞ。生物だぞ』生意気を言う琥珀に言い返す。『うるさい!飴玉!!』

クスクスと思い出し笑いを漏らしてしまった。

ハっと気づけば、向こうから恐竜のようにノシノシ向かって来るの児玉さんの姿が見えた。哀れな獲物にならないようにと、私は慌てて立ち上がる。ラジオ体操に遅れるからと身振り手振りで示すと小走りに病棟へ戻った。





なるべく残さず食べるように心がけているものの、相変わらず食は進まなかった。小さくてカロリーの高そうなお菓子をつまんだりしていたけれど、減った体重は戻らない。あれほどダイエットしようとした昔の自分が嘘のようだ。

今日の夕食は珍しく、ドライカレーとコールスローサラダ、フルーツポンチの洋食メニューだった。味付けは. . . まあ、学校給食程度のものかな?

同席した諸井さんと利根川さんの姿をチラリと見た。二人とも震える手で懸命にスプーンを操り、食事をしていた。介護に付いた看護婦さんはおばあさん達の食事の手伝いをしながらも、隣のテーブルの男性患者にフリカケをかけ過ぎだ塩分注意を忘れたのかと声を掛けた。

. . . 年をとって家族から離れ、家から離れ、他人の中で一日三度の料理が病院食なんて. . . . . . 胸がつきんと痛んだ。


今日も半分残してしまったお膳をそろそろ下げようかと腰を浮かした所で、病棟の入り口のインターフォンの呼び出しが鳴った。昼間は解放されている扉も、午後六時の夕食開始と共に施錠される。それ以降の病棟への出入りは看護婦さん経由となるのだ。

「留璃子ぉ!」
ビクッ!!
私はお膳を取り落としそうになる。

おそるおそる出入り口の頑丈な強化ガラスを振り返った。
「おお!留璃子!!」
10メートル足らずの距離にパパが居た。


『なんだ、精神病院って言うからどんなトコかと思ったら、案外マトモそうな奴もいるじゃないか!』
それが病棟に踏み込んだパパの第一声だった。

ロビーにはまだ食事をしている人達が残っていた。私はパパに抗議しようとする言葉をグっと飲み込んだ。私が言い返せば、パパはもっと酷い言葉を投げて来る。

私は黙ってパパの腕を掴むと、後ろに立っている黒曜を促して自分の個室へ向かった。背中に視線が痛い。
. . . . . . ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

「ふん、トイレも付いてないのか、個室なのに?」パパはベッドにドシンと腰を下ろすと、枕元の大きなキティちゃんにパンチを浴びせた。「まだ、こんな子供みたいな玩具で遊んでいるのか?お前は?」
私はパパを無視すると、黙って立っている黒曜の手にペットのコーラを押し付けた。
「黒曜、椅子に座れば?ジュース飲むでしょ?」
「留璃子ネエ. . . 」
「黒曜、久しぶり?又、背、伸びた?」
「. . . な、訳ねぇだろ. . . 」黒曜はノロノロと椅子に座ると、お約束のジョークに力なく答えた。
「俺は忙しすぎて、3キロも痩せたぞ」パパは聞かずもがなを言った。「揃いもそろって、親不孝者ばかりで、お陰でいくつ体があっても足りんわ!」
「パパ。ここは病院だから大きな声は出さないで」
大きな体に見合った馬鹿でかい声を張り上げるパパに、私は堪らず注意をした。

兄弟で一番大柄な黒曜は高校生の頃すでに190センチを超えていたが、パパはその息子とほぼ同じくらいの背丈があった。しかも若い頃の肉体労働でついた筋肉と骨太のがっちりした肩幅は広く、丸太みたいに太い手足をしていた。加えて年齢相応に付いた脂肪のお陰で、相撲部屋の親方みたいに見えた. . . . . . あくまで品良くしていればの話だけれど。

今は仕事の帰りらしい。パパは黒にボルドーのピンストライプのシルクウール素材のスーツと、やはりボルドーと黒の更紗柄のネクタイとポケットチーフ、袖口から覗くカフにはゴールドに真っ赤なルビーが乗っていた。
パパよりはずっと控えめな趣味の黒曜は濃紺の無地スーツに、ブルーグレーのシャツと、茄子紺のネクタイをしていた。大柄だけど機敏さを感じさせる引き締まった体格には、よく似合っていた。
. . . . . . だけど、二人並んで歩く姿は、堅気の人間には見えないだろうなぁ?

「まだ寝る時間じゃないだろ?」注意されたのが気に入らないのか、パパはことさら大声を張り上げた。「それとも、キチガ. . . 」
「パパ!よして!!」
「何だお前、自分の頭がおかしくなったからって、他の奴まで庇うのか?」
「会長、お見舞い渡さなくていいんですか?」黒曜はタイミングよく言葉を挟み、手にした小さな風呂敷包みを開けた。
「おお、忘れとった!」パパはのしの付いた包みを受け取ると、ポンっとデスクの上に放り投げた。「見舞いだ。とっとけ」
要らない. . . 言いかけて、目線で黒曜に諌められた。
「. . . ありがとうございます」
袋はかなりの厚さがあった。きっと50、否、見舞いなら新札だろうから100位は入ってるのだろう。
「ふん。祐輔君のお袋さんから"留璃子さんの病院は良い所ですね"って言われて大恥かいたぞ!!」どうして義理の親が知ってるのに、俺は知らなかったのだと非難がましい口調で詰め寄る。

そうだ、もうお歳暮の時期だった!お礼の電話のやり取りで、祐輔のお義母さんから話が漏れてしまったんだ。しまったと後悔してももう遅い。

「. . . パパは、忙しい人間だし?. . . 」
「は!まぁそうだな。あそこの親父さんみたいに定年で仕事を追い出された暇人とは違うからな」パパは急に機嫌を直した。
にんまりと思い出し笑いをすると、新しい土地開発を大手企業の傘下で行う"一世一代の事業"について得々と語りだした。どうやらこの話をしたくてしたくて堪らなかったらしい。
私は黒曜を見た。高倉家の三番目で、私の三つ年下の弟。背筋を伸ばして椅子に座り、黙ってパパの話に耳を傾けている頭には、チラホラ白い物が見えた。日に焼けたツヤツヤとした肌に引き締まった体格とのギャップが悲しい。まだ三十二なのに。
. . . . . . 姉弟で唯一パパの下で働く苦労を考えると申し訳なさに居たたまれなくなる。

黒曜は余計な口を挟まず、適当なところで独演会を続けるパパをやんわりと促し席を立った。「会長、そろそろ帰りましょう。明日は九時に京都ですよ」
パパは、おお、そうだったと、ガバっと立ち上がる。
「明日、新幹線は止めた。黒曜、お前運転して行け」
「はい。七時に迎えに行きます」黒曜は素直に頷いた。まるで運転手扱いだ。仮にも高倉建設の社長なのに。
高倉不動産は私が、高倉地所は琥珀、高倉流通は金剛と、それぞれが代表社長に就任していた。いずれも従業員十人に満たない事実上のペーバーカンパニーで、節税対策のものだった。けれど黒曜が代表社長を努める高倉建設は別だ。中小企業だけれど従業員数も百人を超え、全国に名を知られるような大きな仕事も抱えていた。
黒曜にもやりたいことはあったろうに、口数の多い私や琥珀と違い、この子は何も言ってくれない。幼い頃から. . . 。

「. . . 黒曜」私は思わず声を掛ける。「疲れてない. . . ?」陳腐な言葉しか出て来なかった。
「ああ」黒曜はパパを先に行かせると、ポケットから封筒を取り出し、私の手にポンと載せた。「留璃子ネエは自分の事だけ心配してろよ」
「あ、これ、マイちゃんとマヤちゃん?」
「ああ、留璃子ネエちゃんに渡してくれって」
「あ、ありがとう. . . 」琥珀の双子の娘、私の姪っ子達からの思いもかけないプレゼントだった。
「早く元気になって"おようふく かってね"だってよ。ま、見舞いって名のおねだりだ」
「. . . . . . 」
「. . . 泣くなよ、留璃子ネエ」俺が泣かしたみたいじゃねぇかと、小さく舌打ちした。
「. . . な、いて、ない. . . 」
「じゃ、メールしろよな」黒曜は言い捨てると、ムスっとした表情で視線を漂わせたまま部屋を出て行った。


外に出られない時間だったので、私は三階の窓から見送った。帰りも詰め所前でひと悶着起こしたパパのせいで、とてもロビーに居ずらかったけれど黒曜に会ったのは本当に久しぶりなので後ろ姿でも良いから見ていたかったのだ。
大きな身振りで何か話しているのだろうパパの隣で、黒曜は秘書みたいに生真面目な態度で相づちを打っていた。二人は駐車場の一番近い場所にある黒い車に真っ直ぐ向かっていた。パパのキャデラックではなく黒曜のベンツで来たらしい。グレシッシュなメタリックか真っ黒か、私にはその差でしか見分けがつかない。

ベンツの運転席に回った黒曜の姿が、室内灯に照らされ暗い駐車場でポッカリと浮かび上がった。見えるはずはないのに、私は咄嗟に手を振ってしまった。

その時、突然振り返った黒曜が病棟を見上げた。

私に気づいたかな?考える間もなく、クルっと踵を返し車に乗り込んだ黒曜は、ドアを閉める直前、軽く左手を上げヒラヒラと振った。




珍しく早帰り、と言っても九時を過ぎた時刻に帰宅していた祐輔と、タイミング良く話をすることが出来た。
「瑠璃、今日はどんな一日だった?」祐輔は必ずこう聞いてくれた。私の答えが最低なものだと予想出来てもだ。
「私はね普通だった。祐輔は?」
「うん、僕もフツーだった」
「あのね祐輔. . . 私、家に帰ろうかと、思うんだけど. . . ?」
「うん!週末迎えに行くよ!一泊?二泊出来ないの?」電話の向こうからでも祐輔のはしゃいだ気持ちが解る弾んだ声だった。

私は大きく息を吸い込んで吐き出した。
「うんん、違うの祐輔。私ね、ココを退院しようと、思ってるの. . . 」




                シーン4 "ホテルカリフォニア"END シーン5 "スケアリモンスタ"に続く

                                



  〜キョロリの後書き〜

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、サブタイトルの"ホテルカリフォニア"はイーグルスの名曲からインスピレーションを拝借いたしました。成功した彼らが見たのは監獄だったのでしょうか?有名税と言う名の檻だとしたらとても悲しいですよね。

ホテル・カリフォルニアは実在する建物ですが、実際は刑務所がモデルだとか、実は精神病院をモチーフにしたなど、諸説があるらしいです。いずれにしても哀愁の漂うサウンドに乗せた意味深な歌詞の内容は、未だに解説されていないと聞いています。

さて、主人公の留璃子は三度の入院、精神病院はこれで二度目になります。生への執着を全て置き忘れたかのように、眠ること、食べること、愛する喜びまで感じられなくなってしまいました。小説中でなんどか触れたように、彼女はともて恵まれた環境に身を置いています。愛情深い旦那様、仲の良い兄弟、そして金銭的な心配は一切必要ありません。病気療養に置いて、お金の問題は常に隣に有ります。その心配を全くしなくてよい留璃子は、本人の言う通り、恵まれていると思います。

では、何故うつ病になったのでしょう?そして『大うつ』と呼ばれる、長期に渡る治療が必要になってしまたのでしょうか?
母親の死?
父親の暴力的な態度?
それとも、やはり留璃子は「おかしい」のでしょうか?

次回"スケアリモンスタ"で、自分は何に怯えているのか、何を怖がっているのか、自身の心と向き合う事ができるのでしょうか?


このような拙い文で書かれた小説を読んで下さり、ありがとうございます。そして、後書きまで読んで頂けるなんて、感激です!!本当に、ありがとうございます!!






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拍手頂けたらもの凄く嬉しいです!コメント頂けたら踊りだします!!!

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Author:kyorori
登場人物、治療内容、医療機関は全くのフィクションです。病院やお薬について、仮にも参考にできたらな?と訪れて下さった方には申し訳ありません。ゴメンナサイ。

葛藤や苦しみは限りなく本物で、この小説を自己発散の場として使っています。実話より小説の方がより表現しやすいと考えての行動で、もし少しでも理解して頂けたら幸いです。

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